【人物 / おくやみ】
延享四年十月二十四日
(西暦 1747-11-26)
干支: 年[丁卯] 月[辛亥] 日[辛未]
月相: / 節気:
月相: / 節気:
菊岡沾凉が死去。『江戸砂子』著者の俳人
俳人の菊岡沾凉(名は房行、号は米山・崔下菴、通称は藤右衛門)が亡くなりました。延宝8年生まれの68歳でした。伊賀上野の出身(本姓は飯束氏)で若くして菊岡家の養子となり、神田鍛冶町(現在の千代田区神田鍛冶町周辺)に居住し、『江戸砂子』『世事談綺』『あやにしき』『俗諺志』など多くの有益な著作を記しました。息子の政逸は恒足軒と号した。
原文注によれば、子の政逸(恒足軒)については疑問視する説もあります。また沾凉の孫は装飾金工師の柳川直光に弟子入りし、光行と名乗って刀剣飾具の彫刻で有名となり、後に祖父の名を継いで菊岡沾凉(2代目)を号しました。
原文注によれば、子の政逸(恒足軒)については疑問視する説もあります。また沾凉の孫は装飾金工師の柳川直光に弟子入りし、光行と名乗って刀剣飾具の彫刻で有名となり、後に祖父の名を継いで菊岡沾凉(2代目)を号しました。
【 史料原文・書き下し文 】
○十月二十四日、俳人菊岡沾凉卒(六十余歳。名房行、号米山・崔下菴、称藤右衛門。神田鍛冶町住。『江戸砂子』『世事談綺』『あやにしき』『俗諺志』其外著述多し。いづれも有益の書也。男政逸、恒足軒と号す)。
筠庭云、菊岡房行の孫は、柳川直光が弟子にて、刀剣の飾具のほり物をなし、光行と名のりて、世に聞へたり。祖の名を継て菊岡沾凉と号しぬ。
金吾云、沾凉は伊賀上野の人にて本姓飯束氏、若くして菊岡氏の養子となる。延宝八年の生まれにして、亡くなりし時は六十八歳なり。なほ、「男政逸、恒足軒と号す」とするも、これを疑問視する人多し。(武江年表)
筠庭云、菊岡房行の孫は、柳川直光が弟子にて、刀剣の飾具のほり物をなし、光行と名のりて、世に聞へたり。祖の名を継て菊岡沾凉と号しぬ。
金吾云、沾凉は伊賀上野の人にて本姓飯束氏、若くして菊岡氏の養子となる。延宝八年の生まれにして、亡くなりし時は六十八歳なり。なほ、「男政逸、恒足軒と号す」とするも、これを疑問視する人多し。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表
