【人物 / おくやみ】
元禄十六年二月四日
(西暦 1703-03-20)
干支: 年[癸未] 月[乙卯] 日[己巳]
月相: / 節気:
月相: / 節気:
赤穂事件の四十七士が切腹し泉岳寺へ葬られる
二月四日、前年の赤穂事件により主君浅野長矩の仇討ちを成し遂げた浅野家臣(赤穂浪士)の四十七士が、幕府の命により切腹(自尽)しました。
遺体は全員が泉岳寺(現在の東京都港区高輪二丁目周辺)へと葬られ、その墓所には後世に至るまで多くの参詣者が絶えず訪れることとなりました。
なお、この時伝えられた辞世の句として、春帆(義士の富森正因)の句として
寒鳥の身はむしらるゝ行衛哉
[寒風の中で生きる冬の鳥のように、私のこの身体はまさに引き裂かれてしまう運命なのだなあ]
また子葉(同じく義士の大高忠雄)の辞世の句として
梅てのむ茶屋もあるべし死出の山
[これから黄泉の国へと向かう死出の山道であっても、途中にはきっと梅の茶を飲んで一服できるような茶屋だってあるに違いないさ]
が挙げられていますが、これら二つの句はいずれも、榎本其角の作であるとも伝えられています。
また、この義士たちの事績に関して後世に記された多くの関連書名(『赤城盟伝』『赤城紀談』『介石記』『追加介石記』『介浅記』『新撰大石記』『槿花集』『赤穂忠臣記』『武家明鏡記』『易水連袂録』『義人録』〈室直清〉『忠士筆記』〈浅見安正〉『山科の聞書』『忠義碑文』〈忠義碑の三字は二条右大臣綱平公御染筆、三宅九十郎偉明作〉『楠石論』『瑞光院記』『義士考』『義士伝』『義士絶縷』『蓬窓記』『鐘秀記』『義士文通』『春台赤穂四十六士論』『絵本忠臣蔵』、片島武矩の記した『赤穂義臣伝』など多数)が残されています。
遺体は全員が泉岳寺(現在の東京都港区高輪二丁目周辺)へと葬られ、その墓所には後世に至るまで多くの参詣者が絶えず訪れることとなりました。
なお、この時伝えられた辞世の句として、春帆(義士の富森正因)の句として
寒鳥の身はむしらるゝ行衛哉
[寒風の中で生きる冬の鳥のように、私のこの身体はまさに引き裂かれてしまう運命なのだなあ]
また子葉(同じく義士の大高忠雄)の辞世の句として
梅てのむ茶屋もあるべし死出の山
[これから黄泉の国へと向かう死出の山道であっても、途中にはきっと梅の茶を飲んで一服できるような茶屋だってあるに違いないさ]
が挙げられていますが、これら二つの句はいずれも、榎本其角の作であるとも伝えられています。
また、この義士たちの事績に関して後世に記された多くの関連書名(『赤城盟伝』『赤城紀談』『介石記』『追加介石記』『介浅記』『新撰大石記』『槿花集』『赤穂忠臣記』『武家明鏡記』『易水連袂録』『義人録』〈室直清〉『忠士筆記』〈浅見安正〉『山科の聞書』『忠義碑文』〈忠義碑の三字は二条右大臣綱平公御染筆、三宅九十郎偉明作〉『楠石論』『瑞光院記』『義士考』『義士伝』『義士絶縷』『蓬窓記』『鐘秀記』『義士文通』『春台赤穂四十六士論』『絵本忠臣蔵』、片島武矩の記した『赤穂義臣伝』など多数)が残されています。
【 史料原文・書き下し文 】
二月四日、浅野家四十七士自尽。泉岳寺へ葬す(『類柑子』春帆、最後に 寒鳥の身はむしらるゝ行衛哉。子葉、臨終に 梅てのむ茶屋もあるべし死出の山。二句ともに其角作なり。或家秘書、義士の事を記せるものあり。引用の書名のみ爰に挙。
『赤城盟伝』『赤城紀談』『介石記』『追加介石記』『介浅記』『新撰大石記』『槿花集』『赤穂忠臣記』『武家明鏡記』『易水連袂録』『義人録』〈室直清〉『忠士筆記』〈浅見安正〉『山科の聞書』『忠義碑文』〈忠義碑の三字は二条右大臣綱平公御染筆、三宅九十郎偉明作〉『楠石論』『瑞光院記』『義士考』『義士伝』『義士絶縷』『蓬窓記』『鐘秀記』『義士文通』『春台赤穂四十六士論』『絵本忠臣蔵』『赤穂義臣伝』〈享保己亥(つちのとい)、片島武矩〉)。(武江年表)
『赤城盟伝』『赤城紀談』『介石記』『追加介石記』『介浅記』『新撰大石記』『槿花集』『赤穂忠臣記』『武家明鏡記』『易水連袂録』『義人録』〈室直清〉『忠士筆記』〈浅見安正〉『山科の聞書』『忠義碑文』〈忠義碑の三字は二条右大臣綱平公御染筆、三宅九十郎偉明作〉『楠石論』『瑞光院記』『義士考』『義士伝』『義士絶縷』『蓬窓記』『鐘秀記』『義士文通』『春台赤穂四十六士論』『絵本忠臣蔵』『赤穂義臣伝』〈享保己亥(つちのとい)、片島武矩〉)。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表
