【人物 / おくやみ】 明和二年三月七日 (西暦 1765-04-26)
干支: 年[乙酉] 月[庚辰] 日[壬申]
月相: / 節気:

深井志道軒が八十四歳で逝去。浅草寺境内で人気を博した講釈師

三月七日、講釈師の深井志道軒が84歳で亡くなり、葬儀は浅草寺中の金剛院(台東区浅草周辺)にて執り行われました。(名は栄山、号は無一堂)。
もとは知足院の僧侶でしたが、美しい男色・遊女などに溺れて財産を失い、のちに浅草花川戸(現在の東京都台東区花川戸周辺)の戸沢長屋という場所に住み、浅草寺の境内で軍書[講談]を語りました。講談の合間に戯言を交えて聴衆を爆笑させ、席上に僧や女性がいると激しく揶揄して人気を博しました。
毎日たくさんの銭を稼いだものの、稼いだ銭はすべて酒に費やして翌日の蓄えを残さず、生前には自画像に戯文を添えて配り、おもしろい都々逸や狂歌を書き添えて人に配りました。また『元なし草』という戯作本一冊を著しました。
。一男一女がおり、息子の三之介(通称・志道軒三之助)も名を継ぎ活躍しました。志道軒が詠んだ歌として、
思ふ事あるもうれしき我身さへ心のこまの世につながれて
[思い通りにならない悩みがある(生きている)ことすら嬉しいものだ。私の心という馬でさえ、この世という繋ぎ柱に繋がれて生きているのだから。]
というものが知られています。また、辞世の句として
東よりぬつと生れた月日さへ西へとん我もとん
[東から「ぬっ」と生まれた月や日(時間)でさえ西へと去っていくように、私もまた西(あの世・西方浄土)へと飛んでいくのだ。]と遺しました。
なお、同時期に活躍した滋野瑞龍軒という講釈師も、志道軒と並んで評判を集めており、その息子の甚蔵も、父の名を継いで講釈師(舌耕)となりました。
※喜多村筠庭注:『塵塚談』によると、「これより以前、浅草寺の境内に霊全という者がいて、辻説法(辻談義)におかしな話を交えて人々の笑いを取っていた。しかし霊全は仏の教えを基本としていた。志道軒はこの霊全のスタイルを真似たものだ」とのことである。また、同じ講談師である神田白龍子はもっぱら諸大名や旗本屋敷に招かれた人物であった。こちらは享保年間頃の活躍で、志道軒より少し先輩にあたる。銀杏和尚などは、以前に引用した『俳諧時津風』に登場する。また、風来山人(平賀源内)の戯作本に『汚れ銀杏の弁舌には、蘇秦や張儀も言葉に詰まるだろう』といった意味のことが書かれている。そうだとすれば、これらの人物の時代はおおむね同じ頃であろう。
※今井金吾注:蘇秦(そしん)は中国・戦国時代の弁論家(説客)で洛陽の人である。斉の鬼谷子(きこくし)に学び、諸国を遊説して合従策(6か国が同盟して秦に対抗する策)を立て、6か国の宰相を兼ねたが、張儀によって合従策を破られ、斉の大夫(高官)に暗殺された。
また張儀(ちょうぎ)は、同じく戦国時代の弁論家(縦横家)で魏の人である。同じく鬼谷子に師事し、秦の恵王の宰相となって連衡策(各国が個別で秦と同盟を結ぶ策)を掲げて韓・斉・趙・燕を遊説した。恵王の死後、讒言(無実の密告)にあって魏の宰相となり、1年で客死した。
【 史料原文・書き下し文 】
○三月七日、講釈師深井志道軒終(名栄山、号無一堂と云。もとは知足院の僧也。衒艶郎に惑溺して財を失ひ、後浅草花川戸戸沢長屋といふ所に住、浅草寺境内において軍書を講ず。其間に戯言を交へ、聞人をして絶倒せしむ。一坐に僧と女あれば、必譏る事甚し。日々多くの銭を得るといへども、すべて酒にかへて、翌日の貯へをなさず。在世の日、自ら肖像を画て梓に上せ、戯言を書つけて人に与ふ。『元なし草』と云草紙一冊を著す。今年八十四歳にして終れり。浅草寺中金剛院に葬す。一男一女あり。男を三之介といふ。諢名を志道軒三之助と称しけるとなん。志道軒が歌とて聞しは、
思ふ事あるもうれしき我身さへ心のこまの世につながれて
辞世 東よりぬつと生れた月日さへ西へとん我もとん)。
又、同時に滋野の瑞龍軒といふ講釈師も、共に行れし也。其男甚蔵、父の名を継て舌耕せり。
筠庭云、『塵塚談』に、これより先、浅草寺境内に霊全と云者、辻談義に戯言を交へ人の笑を取る。然れども仏意を本とす。志道軒はこれを真似たるものなりといへり。神田白龍子は、専ら諸大名・旗本に招れたるものなり。是は享保比にて少し先輩也。銀杏和尚などは、前に引たる『俳譜時津風』に出づ。又、風来が戯作の草紙に、よごれ銀杏が弁舌には、蘇秦・張儀も閉口すべしとやら書たり。然らば此時代大かた同じかるべし。
金吾云、蘇秦は中国、戦国時代の説客にして洛陽の人也。斉の鬼谷子に学び諸国を遊説、合従策を立て秦に対抗、六国の相となるも、張儀により合従策を破られ、斉の大夫に暗殺さる。また張儀は、同じ戦国時代の縦横家にして魏の人。やはり鬼谷子に師事、秦の恵王の相となり、連衡の策を以て韓・斉・趙・燕を遊説。恵王の没後、讒にあひ、魏の相となり、一年で客死す。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表