【人物 / おくやみ】 正保二年三月二十三日 (西暦 1645-04-19)
干支: 年[乙酉] 月[庚辰] 日[丙申]
月相: 下弦 / 節気:

田宮坊太郎が二十一歳で逝去する(没年には異説あり)

三月二十三日、出家して空仁と名乗っていた田宮坊太郎国宗が21歳で急逝しました。墓は東叡山(上野寛永寺)の塔頭である観成院に置かれました。また一説では、天和三年三月五日に34歳で亡くなり、上野の自観成院(現在の東京都台東区上野公園周辺)に記念の碑が建てられたともいわれます。
※今井金吾注:坊太郎は江戸時代初期の伝説上の剣客であり、歌舞伎や講談などにおける創作だとする見解が多い。歌舞伎には『花上野名誉石碑』という演目があるが、一説によれば次のような経緯とされる。
四国丸亀藩(生駒家)の家臣で、田宮流剣術の名手であった田宮源八郎は、御前試合にて藩の剣術指南番・堀源太左衛門に勝利したものの、その執怨によって騙し討ちに遭い殺害されてしまった。源八郎の妻は当時ちょうど臨月であったが、夫の訃報を聞いて驚いて産気づき、生まれた子こそが坊太郎である。
坊太郎は成長したのち江戸へ出て、柳生飛騨守に剣術を学んで免許皆伝を受け、父の十八回忌の節目に見事父の仇を討ち果たしたという。
なお、『武江年表』本文では坊太郎を「21歳で死去」としているが、演劇・芸能史家の関根只誠(関根金四郎)氏は『増訂武江年表』の天和3年の項において「三月五日、田宮坊太郎死去(34歳)」としている。
どちらの説も「観成院に墓、または碑がある」としているが、そもそも観成院が開創されたのは宝永年間(1704〜1711年)と伝えられているため、天和3年の時点では存在していないため矛盾が生じている。
現在、同じく上野山中の寒松院(かんしょういん)に小さな五輪塔があり、これが坊太郎の墓だと伝えられている。台石には「正保二酉歳(1645年)」と刻まれているが、これは太平洋戦争前には寒松院が管理していた青龍院にあったものであり、青龍院が戦災で焼失した後にこの場所へ移されたのだという。
【 史料原文・書き下し文 】
〔只補〕三月五日、田宮望太郎卒(三十四歳、上野自観成院に碑あり)。
金吾云、正保二年三月二十五日の項にて、既に二十一歳にて卒と記しあり。
○三月二十三日、田宮坊太郎国宗、遁世して空仁と号しけるが、二十一歳にて卒(復讐の談、世の知る所也。墓は東えい山中観成院にあり)。
金吾云、坊太郎は江戸初期の伝説上の剣客にして、芝居や講談等の創作といへる人多し。歌舞妓「花上野名誉石碑」の作あれども、一説によれば、四国丸亀藩生駒氏の家臣にして、田宮流の名手田宮源八郎、御前試合にて藩の指南番堀源太左衛門に勝つも、その遺恨により騙し討ちに遭へり。源八郎の妻は折しも臨月なりしが、報せを聞きて驚き産気づき、生まれたるが坊太郎なり。成人後、江戸に出て柳生飛驒守に剣を学び免許皆伝となり、父の十八回忌に見事仇を討ちしといふ。なほ、本文では、坊太郎は「二十一歳にて卒」とするも、関根只誠氏は〔増訂〕の天和三年の項にて、「三月五日、田宮坊太郎卒す(三十四歳)」とす。いづれも観成院に墓、または碑ありとするも、観成院の開創したるは宝永年間と伝ふ。いま同上野山中、寒松院に小五輪石塔あり、これを坊太郎の墓と伝ふ。台石には「正保二酉歳」とあるも、戦前には寒松院持の青龍院にありしを、青龍院、戦災に遭ひたる後、ここに移せしといふ。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表