【人物 / おくやみ】
弘化四年三月二十五日
(西暦 1847-05-09)
干支: 年[丁未] 月[甲辰] 日[甲辰]
月相: / 節気:
月相: / 節気:
小山田与清、六十五歳で亡くなる。国学者・『擁書倉』創設者
三月二十五日、卓越した国学の研究で知られる小山田与清(幼名:高田茂右衛門、後に六郎右衛門、改名して小山田将曹。号:知非斎・松の屋・擁書倉)が65歳で死去しました。墓所は深川霊厳寺(現在の東京都江東区白河)の中にある霊哲寮に置かれました。
与清の出生地は不明だが一説には相模国津久井(現在の神奈川県相模原市)の人で高田氏の養子に入ったとも言われます。若い頃に過ちを侵して投獄されたものの幸い許され、それより買い集めた書物をもと店舗用の蔵に収め「擁書倉」と名付けました(号は近藤正斎(近藤重蔵)と偶然一致していました)。また「知非斎」と号して過去の不徳を改めたのは、文字の教化によるものでした。
与清の出生地は不明だが一説には相模国津久井(現在の神奈川県相模原市)の人で高田氏の養子に入ったとも言われます。若い頃に過ちを侵して投獄されたものの幸い許され、それより買い集めた書物をもと店舗用の蔵に収め「擁書倉」と名付けました(号は近藤正斎(近藤重蔵)と偶然一致していました)。また「知非斎」と号して過去の不徳を改めたのは、文字の教化によるものでした。
【 史料原文・書き下し文 】
○三月二十五日、小を山田与とも清卒(国学をよくす。幼名高田茂右衛門、又六郎右衛門、後に小山田将曹と改。号知非斎・松の屋・擁書倉といふ。今年六十五歳。深川霊巌寺中霊哲寮に葬す)。
筠庭云、与清は生国はしらず。或云、相州津久井の人なりとなし、高田氏の養子となる。其頃よからぬ事どもありて、暗き所にも入りしかど、幸にして免されたり。夫より書を集めて擁書倉と名付し処は、もと見世店の蔵なり。此号、近藤正斎と暗合す。又知非斎とも号して、旧悪を改めしは、文字の蔭なり。(武江年表)
筠庭云、与清は生国はしらず。或云、相州津久井の人なりとなし、高田氏の養子となる。其頃よからぬ事どもありて、暗き所にも入りしかど、幸にして免されたり。夫より書を集めて擁書倉と名付し処は、もと見世店の蔵なり。此号、近藤正斎と暗合す。又知非斎とも号して、旧悪を改めしは、文字の蔭なり。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表
