善光寺地震発生 善光寺参詣客が多数犠牲に
三月二十四日、信濃国(現在の長野県)にて大地震(善光寺地震)が発生し、甚大な人命被害が出ました。同夜、江戸市中でも微小な地震が観測されています。
当地では三月八日より川中島善光寺如来の開帳が行われており、諸国から大勢の参詣客が稲や麻のごとく群集していました。浅間山の煙が平常より減少していたことが怪しまれていた矢先、三月二十四日夜四ツ時頃(22時頃)、突如として大地震が発生。瞬く間に家屋を押し潰し、下敷きとなって即死する者は数千人に達しました。善光寺周辺の旅籠には参詣者が大勢宿泊しており、ともに数えきれない人々がこの禍に逢いました。ほどなく倒壊家屋から火が出でて大火となり、善光寺の本堂は傾いたまま残ったものの、その他は悉く灰燼に帰しました。
また山中に逃れて一命を取り留めた者も数多くいた一方、雷鳴のような響きとともに激しい揺れが続き、夜明けまでに80余回の余震が観測されました。
激しい揺れにより、大地は裂けて泥砂が湧き出し、その間へ人家が落ち込みました。丹波島より2里(約7.85km)上流の虚空蔵山が20町(約2.18km)ほど崩落して犀川へ落ち入り、洪水が溢れ出て丹波川(犀川)は潮のように押し寄せました。焼死した人馬の数は数えきれず、ある記録にある「3万人」という数字はおおよその見当で確証はありませんが、水内郡(現在の長野市周辺)は特に甚大でした。山崩れや氾濫で一村が流され、生き残った者も障害を負ったり食糧が尽きて路上で悲泣しました。用水は泥水となり雨も降らず困窮したため、公方様(幕府)より仮小屋が建てられて食糧の給与が行われました。
なお開帳の前、門前に立てられた大高札が一夜にして失われ、再建しても再び消え、3度目に至って昼夜番人をつけたという出来事があり、後々まで「この凶変を知らせる神仏の教えであったのだろう」と言われました。
喜多村筠庭によると、この時江戸市中では猿若町二丁目(現在の東京都台東区浅草)の狂言(歌舞伎)で流行していた拳の文句をパロディにした落首が流行しました。
「〽さきは信州善光寺、開帳ぶら出かけます。泊りやぐら御堂へ参りましよ。だんだんだんくゑてきて、爺さまも婆さまもひしやがれた。供はほうにげてきた。迎にさあきなせ。」
[先日は信州善光寺の開帳へぶらりと出かけました。泊まりがけでお堂にお参りしましょう。そうしたらグラグラと激しく揺れてきて、おじいさんもおばあさんも押し潰されてペちゃんこになってしまった。供の者は命からがら逃げてきたよ、さあ迎えにおいで。]
——地震の惨状と参詣の混乱を嘲笑混じりに詠んだものとして知られています。
当地では三月八日より川中島善光寺如来の開帳が行われており、諸国から大勢の参詣客が稲や麻のごとく群集していました。浅間山の煙が平常より減少していたことが怪しまれていた矢先、三月二十四日夜四ツ時頃(22時頃)、突如として大地震が発生。瞬く間に家屋を押し潰し、下敷きとなって即死する者は数千人に達しました。善光寺周辺の旅籠には参詣者が大勢宿泊しており、ともに数えきれない人々がこの禍に逢いました。ほどなく倒壊家屋から火が出でて大火となり、善光寺の本堂は傾いたまま残ったものの、その他は悉く灰燼に帰しました。
また山中に逃れて一命を取り留めた者も数多くいた一方、雷鳴のような響きとともに激しい揺れが続き、夜明けまでに80余回の余震が観測されました。
激しい揺れにより、大地は裂けて泥砂が湧き出し、その間へ人家が落ち込みました。丹波島より2里(約7.85km)上流の虚空蔵山が20町(約2.18km)ほど崩落して犀川へ落ち入り、洪水が溢れ出て丹波川(犀川)は潮のように押し寄せました。焼死した人馬の数は数えきれず、ある記録にある「3万人」という数字はおおよその見当で確証はありませんが、水内郡(現在の長野市周辺)は特に甚大でした。山崩れや氾濫で一村が流され、生き残った者も障害を負ったり食糧が尽きて路上で悲泣しました。用水は泥水となり雨も降らず困窮したため、公方様(幕府)より仮小屋が建てられて食糧の給与が行われました。
なお開帳の前、門前に立てられた大高札が一夜にして失われ、再建しても再び消え、3度目に至って昼夜番人をつけたという出来事があり、後々まで「この凶変を知らせる神仏の教えであったのだろう」と言われました。
喜多村筠庭によると、この時江戸市中では猿若町二丁目(現在の東京都台東区浅草)の狂言(歌舞伎)で流行していた拳の文句をパロディにした落首が流行しました。
「〽さきは信州善光寺、開帳ぶら出かけます。泊りやぐら御堂へ参りましよ。だんだんだんくゑてきて、爺さまも婆さまもひしやがれた。供はほうにげてきた。迎にさあきなせ。」
[先日は信州善光寺の開帳へぶらりと出かけました。泊まりがけでお堂にお参りしましょう。そうしたらグラグラと激しく揺れてきて、おじいさんもおばあさんも押し潰されてペちゃんこになってしまった。供の者は命からがら逃げてきたよ、さあ迎えにおいで。]
——地震の惨状と参詣の混乱を嘲笑混じりに詠んだものとして知られています。
【 史料原文・書き下し文 】
○三月二十四日(陽暦四月二五日)、信州大地震。人多く死す。江戸も、此夜少しの地震あり(今年三月八日より川中島善光寺如来の開帳ありて、諸国より参詣群集する事、稲麻のごとし。然るに浅間山の烟、常よりも減たるを怪しみ居たるに、三月二十四日、昼夜快晴にてありしが、夜四ッ時頃、俄に大地震ひ出し、立地どころに家屋を覆し、圧に打れて即死するもの、幾千人といふ事を知らず。善光寺近辺の旅店は、参詣の輩、泊り合してこの禍に逢ふもの有。ともに数へがたし。無程この倒れたる家より火燃出て、大火と成る。善光寺の本堂は傾たる儘残り、其余は悉く灰燼となんぬ。この時、山中にのがれて利益を蒙り、一命を全ふせしもの数多あり。又雷鳴の如き響ありて尚ゆり出し、夜明に及ぶ迄八十余度、四月・五月にいたりても猶止事なし。大地は裂けて、泥砂湧出し、其間へ人家堕入。丹波島より二里川上、虚空蔵山二十丁程崩れ、犀川へ落入、洪水溢れ、丹波川、水押出し、左右潮のごとし。焼死の人馬、幾といふ事を知らず。或筆記に三万人とあるは、大凡の積りにて、証としがたし。水内郡は殊に甚しかりしとなん。其他、山崩れ、水溢れ、一村を流す。たま生残るものも片輪となり、米穀尽て飢に迫り、道路に悲泣す。この間、地震は止時なく、用水は泥水となり、雨遠にして餲に苦り。程なく官府より小屋を建られて、この窮人を育し食物を給はりけるとぞ。誠に近年の大厄にして、聞く毎に戦慄す。開帳の前、門前へ大なる高札建しに、一夜にしていづちへか失ひ、行方をしらず。再建るに、又行方なし。三度にいたりて、昼夜番人を付たり。是この凶変を知らしめ給ふさとしならんと、後までいへりとぞ)。
筠庭云、此時、落書流行、拳文句、
〽さきは信州善光寺、開帳ぶら出かけます。泊りやぐら御堂へ参りましよ。だんだんだんくゑてきて、爺さまも婆さまもひしやがれた。供はほうにげてきた。迎にさあきなせ。
これは当春、猿若町二丁目の狂言に拳ありて、このごろ流行れる也。(武江年表)
筠庭云、此時、落書流行、拳文句、
〽さきは信州善光寺、開帳ぶら出かけます。泊りやぐら御堂へ参りましよ。だんだんだんくゑてきて、爺さまも婆さまもひしやがれた。供はほうにげてきた。迎にさあきなせ。
これは当春、猿若町二丁目の狂言に拳ありて、このごろ流行れる也。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表
