【人物 / おくやみ】
天和二年十一月三十日
(西暦 1682-12-28)
干支: 年[壬戌] 月[壬子] 日[癸亥]
月相: / 節気:
月相: / 節気:
戸田伊右衛門が十八歳で死去。歌人・戸田茂睡の長男
十一月晦日、歌人として知られる戸田茂睡の長男・伊右衛門が18歳で亡くなりました。墓所は浅草(現在の台東区浅草周辺)の東陽寺境内に設けられ、その場所は「手向野(たむけの)」と名付けられました。
『江戸砂子』によると、寛文年間に東陽寺の近くに住んでいた戸田茂睡は、天和2年に18歳で没した愛息・伊右衛門を手向野に葬り、石塔の傍らに石碑を立てて「手向野とほりて 風の音谷のしづくも あめつちの絶ぬ御法の手向にはして(手向野を通り抜ける風の音や谷の雫の音までもが、天地に絶えることのない仏法の御供物・手向となるように)」との追悼歌を刻みました。茂睡はのちに世を捨てて高野山に入りました。なお東陽寺は現在足立区伊興狭間町に移転しておりますが、この「手向野」の石碑は現在も同寺境内に現存しています
なお、『武江年表』本文にある浅草金龍寺はこの碑について関知していないとされています。
『江戸砂子』によると、寛文年間に東陽寺の近くに住んでいた戸田茂睡は、天和2年に18歳で没した愛息・伊右衛門を手向野に葬り、石塔の傍らに石碑を立てて「手向野とほりて 風の音谷のしづくも あめつちの絶ぬ御法の手向にはして(手向野を通り抜ける風の音や谷の雫の音までもが、天地に絶えることのない仏法の御供物・手向となるように)」との追悼歌を刻みました。茂睡はのちに世を捨てて高野山に入りました。なお東陽寺は現在足立区伊興狭間町に移転しておりますが、この「手向野」の石碑は現在も同寺境内に現存しています
なお、『武江年表』本文にある浅草金龍寺はこの碑について関知していないとされています。
【 史料原文・書き下し文 】
○十一月晦日、戸田茂睡が男、伊右衛門卒。其墓所浅草金龍寺に在(此所を手向野と云。辞世の詩、茂睡が追悼の歌、人の知る所ゆへのせず)。
金吾云、『江戸砂子』には、浅草東陽寺の項に「手向野 境内にあり」とし、次の記を誌す。「寛文のころ、寺のちかきに戸田茂睡と云歌よみ住けり。一子伊右衛門、天和二年十八歳にして卒す。此手向野に葬。石塔のかたはらに石を立、手向野とほりて、風の音谷のしづくもあめつちの絶ぬ御法の手向にはして 茂睡。遁世して高野山に入りし也」。東陽寺はいま足立区伊興狭間町に移転したるも、この手向野の碑は現存す。なほ金龍寺はこれらの碑について不知といふ。(武江年表)
金吾云、『江戸砂子』には、浅草東陽寺の項に「手向野 境内にあり」とし、次の記を誌す。「寛文のころ、寺のちかきに戸田茂睡と云歌よみ住けり。一子伊右衛門、天和二年十八歳にして卒す。此手向野に葬。石塔のかたはらに石を立、手向野とほりて、風の音谷のしづくもあめつちの絶ぬ御法の手向にはして 茂睡。遁世して高野山に入りし也」。東陽寺はいま足立区伊興狭間町に移転したるも、この手向野の碑は現存す。なほ金龍寺はこれらの碑について不知といふ。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表
