【人物 / おくやみ】
嘉永三年五月十五日
(西暦 1850-06-24)
干支: 年[庚戌] 月[壬午] 日[丙午]
月相: 望(満月) / 節気:
月相: 望(満月) / 節気:
谷文二、三十代で夭折する。谷文晁の後継者
五月十五日、江戸画壇の重鎮であった谷文晁の跡を継いだ谷文二が、まだ30代の若さで亡くなりました。
隆盛を誇った谷一門でしたが、実力のあった養子の文一は早世し、文晁の没後に家督を継いだ文二も画力を上げましたが、一度は元の邸宅を引き払って各地を彷徨うなど苦労を重ねました。のちに元の二丁町(現在の台東区東上野周辺)に家を建てて住んだものの不孝・不幸が続き、嘉永3年(1850年)に没しました。残されたものは多額の借金と3歳になる幼子のみであり、その子もどのように成長したか不明であると悼まれています。
※市村屋注:武江年表では文一・文二が混同されており混乱が見られます。
隆盛を誇った谷一門でしたが、実力のあった養子の文一は早世し、文晁の没後に家督を継いだ文二も画力を上げましたが、一度は元の邸宅を引き払って各地を彷徨うなど苦労を重ねました。のちに元の二丁町(現在の台東区東上野周辺)に家を建てて住んだものの不孝・不幸が続き、嘉永3年(1850年)に没しました。残されたものは多額の借金と3歳になる幼子のみであり、その子もどのように成長したか不明であると悼まれています。
※市村屋注:武江年表では文一・文二が混同されており混乱が見られます。
【 史料原文・書き下し文 】
○十二月十四日、画人谷文晁卒(号写山楼、又画学斎。薙髪して文阿弥と云。浅草源空寺に葬す)。
筠庭云、養子文乙、上手なりしが早く死し、文晁も身まかりて、文一、画もよくなりしかど、一度もとの宅引払ひ、さまよひしが、又もとの二丁町に家作りて住けるに、これも不孝にして昨嘉永三年没したりとぞ。残りし物は借財と三つになる子ばかりとぞきく。惜むべし。文一が子ありしが、如何なりしか。
金吾云、文晁の享年七十八歳なり。(武江年表)
筠庭云、養子文乙、上手なりしが早く死し、文晁も身まかりて、文一、画もよくなりしかど、一度もとの宅引払ひ、さまよひしが、又もとの二丁町に家作りて住けるに、これも不孝にして昨嘉永三年没したりとぞ。残りし物は借財と三つになる子ばかりとぞきく。惜むべし。文一が子ありしが、如何なりしか。
金吾云、文晁の享年七十八歳なり。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表、wikipedia
