【人物 / おくやみ】
安永三年三月十八日
(西暦 1774-04-28)
干支: 年[甲午] 月[戊辰] 日[辛酉]
月相: / 節気:
月相: / 節気:
建部綾足(寒葉斎)が五十六歳で逝去し牛島弘福寺に葬られる。文人・画人
三月十八日、俳諧・国学・絵画・読本(『西山物語』等)など多方面で才を発揮した文人の建部綾足(画号は寒葉斎・陵袋、俳号は涼袋、歌号は綾足、56歳)が逝去しました。墓所は牛島の弘福寺(現在の東京都墨田区堤通一丁目周辺)に置かれました。
※喜多村筠庭注:本文に「涼袋」とあるのは誤りである[※正しくは「綾足」など]。建部綾足は、もと賀茂真淵に師事したが、その学説を批判して『詞草小苑』などの書物を著した。もとより俳諧を得意とし、世に古くからの「片歌」を復活させようとして『片歌道のはじめ』や『二夜問答』など、あれこれと著述を執筆したけれども、結局は世に行われなかった。また絵画を得意として『寒葉斎画譜』を著した。これには加藤千蔭の跋文(あとがき)がある。千蔭も絵をこの人(綾足)に学んだのだろうか、彼を「先生」と称えて持ち上げている。しかし千蔭自身は絵を得意としていない。綾足の画風は中国画(唐絵・南画)の流派である。また戯作(小説)の執筆もあり、『西山物語』や『本朝水滸伝』などの類がそれである。上方のある人物の随筆に、与謝蕪村とこの綾足の二人を比較して、「蕪村は無学で知識がなく、放蕩によって家財を潰して俳諧師となった者だ。絵画も綾足の足元にも及ばない」などと書いていた。しかし、実際には蕪村の絵は時代の好みに合致して世間に大絶賛され、綾足は不遇のまま世に用いられなかった。さぞ無念であっただろう。
※今井金吾注:涼袋(綾足)は陸奥国弘前[青森県弘前市]の人であり、本名は喜多村久域(ひさむら)である。俳号を「涼袋」、画号を「陵袋」または「寒葉斎」という。宝暦13年(1763年)に賀茂真淵に入門し、和歌を詠む際の名(歌号)を「綾足」としたのである。
※喜多村筠庭注:本文に「涼袋」とあるのは誤りである[※正しくは「綾足」など]。建部綾足は、もと賀茂真淵に師事したが、その学説を批判して『詞草小苑』などの書物を著した。もとより俳諧を得意とし、世に古くからの「片歌」を復活させようとして『片歌道のはじめ』や『二夜問答』など、あれこれと著述を執筆したけれども、結局は世に行われなかった。また絵画を得意として『寒葉斎画譜』を著した。これには加藤千蔭の跋文(あとがき)がある。千蔭も絵をこの人(綾足)に学んだのだろうか、彼を「先生」と称えて持ち上げている。しかし千蔭自身は絵を得意としていない。綾足の画風は中国画(唐絵・南画)の流派である。また戯作(小説)の執筆もあり、『西山物語』や『本朝水滸伝』などの類がそれである。上方のある人物の随筆に、与謝蕪村とこの綾足の二人を比較して、「蕪村は無学で知識がなく、放蕩によって家財を潰して俳諧師となった者だ。絵画も綾足の足元にも及ばない」などと書いていた。しかし、実際には蕪村の絵は時代の好みに合致して世間に大絶賛され、綾足は不遇のまま世に用いられなかった。さぞ無念であっただろう。
※今井金吾注:涼袋(綾足)は陸奥国弘前[青森県弘前市]の人であり、本名は喜多村久域(ひさむら)である。俳号を「涼袋」、画号を「陵袋」または「寒葉斎」という。宝暦13年(1763年)に賀茂真淵に入門し、和歌を詠む際の名(歌号)を「綾足」としたのである。
【 史料原文・書き下し文 】
○三月十八日、建部凉袋卒(五十六歳。牛島弘福寺に葬す。画幷俳諧を善くす。寒葉斎と号す)。
筠庭云、凉袋とあるは誤なり。建部綾岱、もと真淵に従ひしかど、其説を非として『詞草小苑』抔書を著したり。固より俳諧をよくし、世に片歌を起さんとて『片歌道のはじめ』・同『二夜問答』、其他何くれと著述したれども、終に行はれず。又、絵をよくして、『寒葉斎画譜』を著す。加藤千蔭の跋文あり。千蔭も画を此人に学びしにや、先生とたゝへたり。されど千蔭は画をよくせず。綾岱が画は唐絵の流なり。又、戯作もあり。『西山物語』『本朝水滸伝』などの類なり。上方の人誰やらの随筆に、謝蕪村と此人の事をいひて、蕪村はもの知らぬ不学のもの、放蕩にて家産をやぶり、俳諧師となれり。画も綾足に及ばず抔いへりしかど、蕪村が画は時好に叶ひて世に称せられ、綾足は不遇にて用ひられず。恨みなるべし。
金吾云、凉袋は陸奥弘前の人にして、本多喜多村久域。俳号を凉袋、画号を陵袋・寒葉斎といふ。宝暦十三年、賀茂真淵に入門、歌号を綾足とす。(武江年表)
筠庭云、凉袋とあるは誤なり。建部綾岱、もと真淵に従ひしかど、其説を非として『詞草小苑』抔書を著したり。固より俳諧をよくし、世に片歌を起さんとて『片歌道のはじめ』・同『二夜問答』、其他何くれと著述したれども、終に行はれず。又、絵をよくして、『寒葉斎画譜』を著す。加藤千蔭の跋文あり。千蔭も画を此人に学びしにや、先生とたゝへたり。されど千蔭は画をよくせず。綾岱が画は唐絵の流なり。又、戯作もあり。『西山物語』『本朝水滸伝』などの類なり。上方の人誰やらの随筆に、謝蕪村と此人の事をいひて、蕪村はもの知らぬ不学のもの、放蕩にて家産をやぶり、俳諧師となれり。画も綾足に及ばず抔いへりしかど、蕪村が画は時好に叶ひて世に称せられ、綾足は不遇にて用ひられず。恨みなるべし。
金吾云、凉袋は陸奥弘前の人にして、本多喜多村久域。俳号を凉袋、画号を陵袋・寒葉斎といふ。宝暦十三年、賀茂真淵に入門、歌号を綾足とす。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表
