中村仏庵が八十四歳で死去。御畳大工棟梁で書家
正月七日、御畳大工の棟梁であり書をよくした中村仏庵(84歳。名は景連、通称は弥太夫)が亡くなりました。小梅村(現在の東京都墨田区向島周辺)の借家を歌舞伎役者の岩井紫若に買収されて退去する際、「雲介(駕籠舁き)が住み荒らした家だから河原乞食(役者)が後に来るのだろう」という意味の捨てぜりふを残す負け惜しみを見せました。その後、仏庵は亀戸天神橋の向かいにあたる河岸(現在の東京都江東区亀戸付近)に新たな住居を構えて暮しました。
なお、仏庵が自ら「雲介」を名乗るようになった背景には、風変わりな趣味が関係していると言われています。東海道の箱根で駕籠かき(雲助)が使用していた竹杖を譲り受け、その杖に多くの名士や文人から寄稿された詩を刻ませて愛用していました。これは当時流行した名所案内書『東海道名所図会』の中に、銅脈先生(文人・銅脈家)が雲助の道中を描いた狂詩があり、その結句にある「竹杖一本 天下に横行す(竹杖一本で天下を自由に渡り歩く)」という一節に着想を得たものとみられます。仏庵はこの趣味が高じ、最終的に自らの号(庵号)を「雲介舎」と名乗っていました。
なお、仏庵が自ら「雲介」を名乗るようになった背景には、風変わりな趣味が関係していると言われています。東海道の箱根で駕籠かき(雲助)が使用していた竹杖を譲り受け、その杖に多くの名士や文人から寄稿された詩を刻ませて愛用していました。これは当時流行した名所案内書『東海道名所図会』の中に、銅脈先生(文人・銅脈家)が雲助の道中を描いた狂詩があり、その結句にある「竹杖一本 天下に横行す(竹杖一本で天下を自由に渡り歩く)」という一節に着想を得たものとみられます。仏庵はこの趣味が高じ、最終的に自らの号(庵号)を「雲介舎」と名乗っていました。
【 史料原文・書き下し文 】
正月七日、中村仏庵卒(八十四歳。名景連、称弥太夫。御畳大工の棟梁にして、書をよくす)。
筠庭云、仏庵は小梅村に暫く居たるに、その地を俳優岩井紫若が買取りしかば、仏庵、爰に居る事ならず、去る時、雲介が住あらしたる家なれば、河原こじきや跡にきぬらん、とやら書て出でたりとかや。負をしみと云ふべし。夫より後、亀戸天神橋向河端に家を求めて居れり。自ら雲介と云ふことは、東海道箱根にて駕籠舁が持たる杖を請乞て、其杖に諸名家の題詩を乞ひて刻したり。面白からぬ物ずきなり。思ふにこれは、其頃『東海道名所図会』行はれしが、画上に銅脈が雲介行の狂詩を題せり。其結句に、竹杖一本天下に横行すと云ふ事あり。是によりたる思ひ付と見へたり。遂に雲介舎と号す。(武江年表)
筠庭云、仏庵は小梅村に暫く居たるに、その地を俳優岩井紫若が買取りしかば、仏庵、爰に居る事ならず、去る時、雲介が住あらしたる家なれば、河原こじきや跡にきぬらん、とやら書て出でたりとかや。負をしみと云ふべし。夫より後、亀戸天神橋向河端に家を求めて居れり。自ら雲介と云ふことは、東海道箱根にて駕籠舁が持たる杖を請乞て、其杖に諸名家の題詩を乞ひて刻したり。面白からぬ物ずきなり。思ふにこれは、其頃『東海道名所図会』行はれしが、画上に銅脈が雲介行の狂詩を題せり。其結句に、竹杖一本天下に横行すと云ふ事あり。是によりたる思ひ付と見へたり。遂に雲介舎と号す。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表
