【事件・災害 / 火災・火事】
天保五年二月七日
(西暦 1834-03-16)
干支: 年[甲午] 月[丁卯] 日[壬寅]
月相: / 節気:
月相: / 節気:
神田佐久間町から出火し日本橋や築地、木挽町に至るまで壊滅的大火
二月七日、北風が烈しく吹き荒れる中、昼八時(14時頃)に神田佐久間町二丁目の琴師の宅(現在の東京都千代田区神田佐久間町周辺)より出火しました。
火の手は即時に神田川を越えて東神田のお玉が池の周辺へ飛び火し、一円に激しく燃え広がりました。
東側は両国矢の倉の周辺(現在の千代田区東神田・中央区東日本橋周辺)にいたり、西側はお玉が池から今川橋の向かい側、本銀町、石町、本町、室町にいたるまでの東側一円、伝馬町牢屋敷、油町、塩町、堺町、葺屋町の両座芝居、住吉町、難波町、大坂町、小網町の周辺(現在の中央区日本橋周辺)を焼き尽くしました。
この間に挟まれた町は一片たりとも残る場所がないほどの壊滅状態となりました。
さらに日本橋より先も、通り町筋の東側、八丁堀、霊巌島の周辺、新川、新堀、永代橋の際、鉄砲洲、築地門跡から海手にいたるまで、さらには木挽町の芝居小屋や佃島などにいたるまで悉く焼亡しました。
焼失した区域の広さは、去る天保五年三月の火事と大体において違わないほどの規模でした。
一説にはこの火災による焼失町数は480余町、焼死者は4000人に及ぶと伝えられています。
また、石塚豊芥子の著す『国場遊廓考』によると、この大火を契機として「引っ張り」と称される私娼(非合法な売春婦)が発生するようになり、翌年の天保六年の大飢饉の節にさらに甚だしく盛んになったと述べています。
火の手は即時に神田川を越えて東神田のお玉が池の周辺へ飛び火し、一円に激しく燃え広がりました。
東側は両国矢の倉の周辺(現在の千代田区東神田・中央区東日本橋周辺)にいたり、西側はお玉が池から今川橋の向かい側、本銀町、石町、本町、室町にいたるまでの東側一円、伝馬町牢屋敷、油町、塩町、堺町、葺屋町の両座芝居、住吉町、難波町、大坂町、小網町の周辺(現在の中央区日本橋周辺)を焼き尽くしました。
この間に挟まれた町は一片たりとも残る場所がないほどの壊滅状態となりました。
さらに日本橋より先も、通り町筋の東側、八丁堀、霊巌島の周辺、新川、新堀、永代橋の際、鉄砲洲、築地門跡から海手にいたるまで、さらには木挽町の芝居小屋や佃島などにいたるまで悉く焼亡しました。
焼失した区域の広さは、去る天保五年三月の火事と大体において違わないほどの規模でした。
一説にはこの火災による焼失町数は480余町、焼死者は4000人に及ぶと伝えられています。
また、石塚豊芥子の著す『国場遊廓考』によると、この大火を契機として「引っ張り」と称される私娼(非合法な売春婦)が発生するようになり、翌年の天保六年の大飢饉の節にさらに甚だしく盛んになったと述べています。
【 史料原文・書き下し文 】
○二月七日(陽暦三月一六日)、北風烈しく、昼八時、神田佐久間町二丁目琴師の家より出火して、即時に神田川を越て東神田お玉が池の辺へ移り、一円に焼広がり、東は両国矢の倉(旧名なり)辺にいたる。西は神田お玉が池より今川橋向・本銀町・石町・本町・室町迄東側一円、伝馬町牢屋敷・油町・塩町・堺町・葺屋町両座の芝居・住吉町・難波町・大坂町・小網町辺。この間に挟りたる町は、少しも残る所なし。日本橋より先は、通り町筋東側・八丁堀・霊巌島の辺・新川・新堀・永代橋際迄、鉄炮洲・築地門跡より海手まで、木挽町芝居・佃島等悉く焼亡す。方域、去ル丑年三月の火事に大やうたがはず。
金吾云、一説にこの火災による焼失町数四百八十余町、焼死四千人に及ぶと伝へ、またこれを契機に、引つぱりと称する私娼の生じたることを、『国場遊廓考』(豊芥子著)は次の如くに述ぶ。天保五午年二月七日、佐久間町より出火。大火後より(引つぱり)始り、同六未年、大飢饉之節、甚盛んになる。(武江年表)
金吾云、一説にこの火災による焼失町数四百八十余町、焼死四千人に及ぶと伝へ、またこれを契機に、引つぱりと称する私娼の生じたることを、『国場遊廓考』(豊芥子著)は次の如くに述ぶ。天保五午年二月七日、佐久間町より出火。大火後より(引つぱり)始り、同六未年、大飢饉之節、甚盛んになる。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表
