【事件・災害 / 火災・火事】 安政五年十一月十五日 (西暦 1858-12-19)
干支: 年[戊午] 月[甲子] 日[丙戌]
月相: / 節気:

神田相生町より出火し日本橋・京橋・風向き変化で神田一円など二百五十九町が全焼する大火

十一月十五日の明け方、丑の刻(午前2時頃)、神田相生町(現在の東京都千代田区神田練塀町周辺)の北にある若林氏屋敷より火災が発生しました。激しい乾風(北西風)にあおられて相生町、松永町、八軒町、佐久間町一丁目〜三丁目、仲町一丁目、花房町(いずれも現在の千代田区神田周辺)へ延焼し、和泉橋を焼き落として柳原堤を越え、東神田鎌倉横町代地、松下町代地、龍閑町代地、横大工町代地、浜松町、市橋侯・横瀬侯屋敷、お玉が池武家地、小泉町、豊島町、久右衛門町、松枝町、弁慶橋、通旅籠町、橋本町、馬喰町二丁目(いずれも千代田区神田・中央区日本橋周辺)へ拡大しました(※柳森稲荷社やお玉が池の細川侯屋敷、通旅籠町の大丸屋は焼失を免れました)。
明け方に艮(東北)の風へ変わると、堀留町、大伝馬町牢屋敷、鉄砲町、小伝馬町、小舟町、新乗物町、岩代町、新材木町、葺屋町、境町、元大坂町、甚左衛門町、小網町一丁目(いずれも中央区日本橋周辺)へ広がり、荒布橋を焼き落としました。さらに東風へ転じると内神田一円へ延焼し、北・西の限度として岩井町、平永町、小柳町、柳原受負地、須田町、連雀町、佐柄木町、青山侯長屋、雉子町、四軒町、三河町四町・裏町、本多侯屋敷、御堀端の鎌倉町、龍閑町、本銀町、新石町、鍋町、鍛冶町、本町、石町、両替町、北鞘町、品川町、駿河町、室町、通町筋、本船町、安針町、長浜町、伊勢町、瀬戸物町(いずれも千代田区神田・中央区日本橋周辺)を焼き尽くし、日本橋を半焼させました(※内神田で残ったのは養安院屋敷と四軒町半分のみでした)。火は橋を渡り四日市周辺から通一丁目〜四丁目、呉服町、南伝馬町、獲物町、槙町、桶町、南鍛冶町、五郎兵衛町、畳町(いずれも中央区日本橋・八重洲・京橋周辺)へ及び、東の中通りでは青物町から川瀬石町・箔屋町・具足町・炭町(いずれも中央区日本橋・八重洲周辺)まで焼き進みました(※通一丁目東側、西河岸町、北紺屋町は焼残りました)。
昼過ぎに巽(南東)の風へ変わる中で同夜戌下刻(午後10時頃)に鎮火しましたが、江戸城郭内の因州徳川家屋敷(千代田区丸の内周辺)にも及ぶ惨事となりました。
竜巻・旋風が発生して掘端に退避させた財物を空へ巻き上げるほどの惨状で、全焼した町数は合計259町、武家屋敷80余宇が罹災し、長延22町余(約2.4キロメートル)・平均幅7町(約760メートル)にわたり、無数の倉庫が焼け落ち無数の死傷者が出ました。
※災後、佐久間町河岸通り(現在の千代田区神田佐久間川岸周辺)に被災貧民救済の仮屋(救護施設)が建設され、野宿を余儀なくされた人々に宿泊場所と1日3食の給食が与えられました。翌年2月までに被災者たちは元の町や新たな住居へと無事に立ち返りました。
【 史料原文・書き下し文 】
○同十五日暁、丑刻、神田相生町の北なる若林氏屋敷より失火し、始は乾の風烈しく、同所続武家地へ焼込、相生町・松永町・八軒町・佐久間町一丁目より三丁目迄、仲町一丁目・花房町辺へ広がり、和泉橋焼落、柳原堤を越て(柳森稲荷社は残れり)、東神田鎌倉横町代地・松下町代地・龍閑町代地・横大工町代地・浜松町、此辺武家地・市橋侯・横瀬侯屋敷・お玉が池武家地数ヶ所(細川侯残る)・小泉町・豊島町(少し焼込)・久右衛門町・松枝町・弁慶橋・通旅籠町へ飛火(大丸屋残る)、橋本町・馬喰町二丁目迄。又明方艮の風に替りて、堀留町・大伝馬町牢屋敷・鉄炮町・小伝馬町より小舟町・堀留町・新乗物町・岩代町・新材木町・葺屋町・境町(半分焼)・元大坂町・甚左衛門町・小網町一丁目・荒布橋焼落る。又東の風になりて、神田町々一円に焼たり(内神田にては、纔に残りしは、養安院やしきと四軒町半分のみなりし)。北より西の限は岩井町・平永町・小柳町・柳原受負地・須田町・連雀町・佐柄木町・青山侯長屋少し焼込、雉子町・四軒町・三河町四町・同裏町共不残。本多侯屋敷、其外三河町続武家方焼込、御堀端鎌倉町・龍閑町・本銀町・四軒やしき・新石町・鍋町・鍛冶町・本銀町・本町・石町・両替町・北鞘町・品川町・駿河町・室町・通町筋・本船町・安針町・長浜町・伊勢町・瀬戸物町、日本橋半分焼、橋向四日市辺より通一丁目(東側残る)・弐丁目・三丁目・四丁目一円・呉服町(西河岸町は残る)・南伝馬町・檜物町・槙町・桶町・河岸通り・南鍛冶町・五郎兵衛町・畳町の辺、御堀端迄焼、北紺屋町残る。東の中通りは、青物町より川瀬石町まで両側、夫より南は箔屋町より先、西側焼通り、具足町・炭町の辺に至る(昼時過には巽の風に替る)。同夜戌下刻、鎮る。又御曲輪の内、因州侯屋敷も災にかゝられたり。町小路、焼死・怪我人筭ふべからず。倉庫の焼落たるも甚多し。又、旋風吹起りて、御壕の端へ運び出したる資財・雑具を虚空に巻上たりといふ。凡長延二十二町余・幅平均にして七町程、町数弐百五十九町、武家八十余宇なり。
○災後、佐久間町河岸通へ貧民御救の仮屋を建て、露眠ノジユクの輩を宿せしめ、三度の食を与へらる。末二月にいたり元地へ帰り、或はあらたに宅を求めて、夫々(それぞれ)安住す。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表