【人物 / おくやみ】
文化八年二月十三日
(西暦 1811-03-07)
干支: 年[辛未] 月[辛卯] 日[壬辰]
月相: / 節気:
月相: / 節気:
村田春海、六十六歳で亡くなる。国学者・歌人・深川本誓寺に葬る
二月十三日、国学に長じ和歌にすぐれた村田春海(号は錦織叟、別号に琴後翁、通称は平四郎)が66歳で死去しました。
尾崎雅嘉著の『群書一覧』によると、春海は寛平中に、平安時代に編纂された字書『新撰字鏡』を購得し、世に広く弘めたのは春海の功績であると評されています。
春海はかつて御連歌師の坂氏の養子となりましたが、実家の兄が亡くなって世継ぎがいなくなったため、坂氏のもとを離れて実家へ復籍しました(その際、坂氏から迎えていた妻は実家へ送り返されています)。
春海はもとより当時の「大通」と呼ばれる通人たちの仲間に属していましたが、のちに和書を深く嗜むようになって名家となりました。
加藤千蔭と一双のように並び称されましたが、千蔭には学問に通じた弟子がいなかったのに対し、春海には清水浜臣をはじめとする優れた学者が多く集まり、その師としての学識の深さがうかがえます。
春海の実家は日本橋の豪商でしたが、兄・村田春郷の死後に家督を継いだものの遊蕩によって破産しました。
父や兄と共に賀茂真淵に学び、のちには県居門の重鎮として加藤千蔭と共に江戸歌文派の指導者として活躍し、娘には歌人として知られた村田多勢子がいました。
葬儀および墓所は、深川の本誓寺(現在の東京都江東区平野周辺)にて執り行われました。
尾崎雅嘉著の『群書一覧』によると、春海は寛平中に、平安時代に編纂された字書『新撰字鏡』を購得し、世に広く弘めたのは春海の功績であると評されています。
春海はかつて御連歌師の坂氏の養子となりましたが、実家の兄が亡くなって世継ぎがいなくなったため、坂氏のもとを離れて実家へ復籍しました(その際、坂氏から迎えていた妻は実家へ送り返されています)。
春海はもとより当時の「大通」と呼ばれる通人たちの仲間に属していましたが、のちに和書を深く嗜むようになって名家となりました。
加藤千蔭と一双のように並び称されましたが、千蔭には学問に通じた弟子がいなかったのに対し、春海には清水浜臣をはじめとする優れた学者が多く集まり、その師としての学識の深さがうかがえます。
春海の実家は日本橋の豪商でしたが、兄・村田春郷の死後に家督を継いだものの遊蕩によって破産しました。
父や兄と共に賀茂真淵に学び、のちには県居門の重鎮として加藤千蔭と共に江戸歌文派の指導者として活躍し、娘には歌人として知られた村田多勢子がいました。
葬儀および墓所は、深川の本誓寺(現在の東京都江東区平野周辺)にて執り行われました。
【 史料原文・書き下し文 】
○二月十三日、村田春海卒(六十六歳。錦織叟、一に琴後翁、称平四郎と云。国学に長じ、和歌をよくす。『群書一覧』に云、寛平中の『新撰字鏡』を購得しより、世に弘たるは春海が賜也と云々。■■■■■に葬す)。
筠庭云、村田春海は、一度御連歌師坂氏養子となりしが、実家の兄うせて世継なければ、坂氏を亡命の分にして実家に帰れり。坂氏より妻をばそれへ嫁しをくりぬ。春海、もと其頃の大通と云者の内なり。されど和書を嗜みて名家となる。千蔭と一双に聞へしかど、千蔭には弟子に学文ある者なく、春海は頗る学者、浜臣などの弟子あり。其師の甲乙、知べきものなり。
金吾云、春海の実家は日本橋の豪商なりしが、兄春郷の死により家督を相続するも、遊蕩により破産す。父・兄と共に賀茂真淵に学び、のち県居門の重鎮として加藤千蔭と共に江戸歌文派の指導者たり。女に歌人村田多勢子あり。春海の葬所は深川本誓寺なり。(武江年表)
筠庭云、村田春海は、一度御連歌師坂氏養子となりしが、実家の兄うせて世継なければ、坂氏を亡命の分にして実家に帰れり。坂氏より妻をばそれへ嫁しをくりぬ。春海、もと其頃の大通と云者の内なり。されど和書を嗜みて名家となる。千蔭と一双に聞へしかど、千蔭には弟子に学文ある者なく、春海は頗る学者、浜臣などの弟子あり。其師の甲乙、知べきものなり。
金吾云、春海の実家は日本橋の豪商なりしが、兄春郷の死により家督を相続するも、遊蕩により破産す。父・兄と共に賀茂真淵に学び、のち県居門の重鎮として加藤千蔭と共に江戸歌文派の指導者たり。女に歌人村田多勢子あり。春海の葬所は深川本誓寺なり。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表
