【人物 / おくやみ】 文政十三年十一月二十日 (西暦 1831-01-03)
干支: 年[庚寅] 月[戊子] 日[甲戌]
月相: / 節気:

観嵩月が死去。英一蝶の画風を継承した画家

十一月二十日、絵師の観嵩月(名は常雄、晩年は景納と号す)が70余歳(一説に76歳、宝暦6年生まれ)で亡くなり、墓所は深川(現在の東京都江東区深川周辺)の陽岳寺に置かれました。
※『武江年表』本文には「英一蜂の門人」と記されますが、著名な注釈者たちによって以下の通り詳細な考証や逸話が補足されています。
1. 金賀筠庭の補足(鑑定と速筆をめぐる逸話):阿波徳島藩の魚類用達で俳諧や茶器を嗜んだ「榎坂夜語」の伝聞によれば、嵩月は英一蝶の真偽鑑定において、英一谷(一蝶の門人)らの鑑定を経た品であっても「一蝶が島流しから江戸へ帰府した後にこれほど多くの作品を描けるはずがない」と主張して不採用とし、贋作と決めつけることが度々ありました。これは一蝶のような名人の速筆ぶりを知らず、自分自身の筆の遅さを基準にして判断していたためであり、周囲の画工たちから呆れられていたといいます。
2. 興玄浄の補足(住居と血縁関係):嵩月は久松町に続く武家地(現在の中央区日本橋久松町周辺)に居住していました。また、東湊町(現在の中央区湊周辺)で質屋を営んでいた奈良屋源七は嵩月の実弟にあたり、この奈良屋は豪商・太平楽の奈良屋茂左衛門(奈良茂)の子孫です。
3. 今井金吾の考証(師承関係の矛盾):著者の斎藤月岑は嵩月を英一蜂の門人とし、筠庭も英一蝶との関係に触れていますが、生没年を照合すると年代が一致しません。一蜂は嵩月の生年より18年も前の元文2年に没しており、初代一蝶もさらに前の享保9年に没しているため、直接の師弟関係は成り立ちません。実際には一蝶の画風を最もよく継承し明和9年に66歳で没した英一蝶の門人・佐脇嵩之の門下に、当時16歳だった嵩人(嵩月)が入門し、師である嵩之の「嵩」の一字を譲り受けて「観嵩月」と号したのが真相と推測されます。
【 史料原文・書き下し文 】
○十一月二十日、画家観嵩月卒(七十余歳。名常雄、晩年景納と号。英一蜂の門人也。深川陽岳寺に葬す)。
筠庭云、榎坂夜語は、阿州侯の魚物の用達なり。俳諧を好み、旁ら茶器をひさぐ。それがいへらく、嵩月、一蝶の筆を看定すること、大方は嵩谷などの目を通したるをも贋物とてうけずして云く、一蝶といひて帰府の後、書たる、かく多かるべからずとなり。是は自分の画くことの遅きに較べていふなり。名人の速筆なるをしらずといへり。度々蹴付られて、呆れたるなるべし。
興玄浄云、嵩月は久松町つゞき武士地に住。東湊町質や奈良屋源七は、嵩月の弟にして、太平楽の奈良茂が子孫也。
金吾云、一書に嵩月の享年を七十六歳とす。然りとせば、その生まれたるは宝暦六年なり。月岑は嵩月の師を、英一蜂とせしも、一蜂は嵩月の生まれたる宝暦五年より十八年以前、元文二年に没したる人にして、「画風、一蝶に似て巧なり」と称さる。また筠庭のいへる一蝶は初代英一蝶ならんが、一蜂よりさらに十三年前、享保九年に没してをれり。さすれば、月岑のいへる一蜂にしても、また筠庭のいへる一蝶にしても、嵩月の師とするには、時代が合はざるなり。ただ初代一蝶には、佐脇嵩之といへる門人あり、一蝶の画風を最もよく伝へし人といはる。この人は明和九年七月三日に六十六歳にて亡くなれるが、嵩月はこの時、十六歳に当たれり。嵩月はこの嵩之の門人にして、師の号の一字を取り、嵩月と号したるには非ずや。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表