神田多町より出火し風向きの変化で神田・日本橋百一町(十町三十間余)が全焼する大惨事に
十二月二十八日の酉の下刻(午後六時半頃)、神田多町二丁目(現在の東京都千代田区神田多町二丁目周辺)北側の乾物屋「三河屋半次郎」宅より出火しました。当初は強い北西風により連雀町(現在の神田須田町一丁目周辺)、新銀町(現在の神田司町二丁目周辺)、佐柄木町(現在の神田司町・神田美土代町周辺)、須田町(現在の神田須田町周辺)へ焼き込みました。その後北風に変わり、須田町二丁目、通新石町(現在の神田須田町・鍛冶町周辺)から通り町筋、本銀町(現在の日本橋本石町周辺)、本石町、本町四丁目(現在の日本橋本町周辺)、本両替町(現在の日本橋香港・本石町周辺)、駿河町(現在の日本橋室町一丁目周辺)、北鞘町(現在の日本橋本町周辺)、品川町、室町一丁目(現在の日本橋室町一丁目周辺)、日本橋際まで達し、東側は小柳町(現在の神田須田町二丁目周辺)、黒門町、三島町、岸町、永井町、富山町(現在の神田富山町周辺)、紺屋町(現在の神田紺屋町周辺)一帯、浮世小路、塩河岸、瀬戸物町、小田原町(現在の日本橋室町一丁目周辺)、本船町(現在の日本橋本町一丁目周辺)および同河岸通まで焼け出しました。暁になって東風へ変化し、さらに風向きが変転したことで、西側の雉子町、四軒町、三河町四丁目(現在の神田司町二丁目周辺)、同裏町、この周辺の武家地、養安院屋敷、鎌倉町(現在の内神田二丁目周辺)、龍閑町(現在の神田内神田・鍛冶町周辺)、松下町(現在の神田松下町周辺)、永富町(現在の神田多町周辺)、皆川町(現在の神田鍛冶町周辺)周辺にまで至りました。これらの区域に挟まれた町々は一軒残らず全焼し、翌二十九日朝五時頃(午前八時頃)になってようやく鎮火しました(※伝馬町牢屋敷は焼失を免れ、東神田平永町より東側は無事でした)。武家地の被害は少なかったものの、被災町数は百一か町、被害範囲は長さ十町三十間余(約一・一五キロメートル)・平均幅四町四十間程(約五〇九メートル)におよびました。
【 史料原文・書き下し文 】
○同二十八日、酉下刻、神田多町弐丁目北側なる乾物屋三河屋半次郎が宅より出火して、始は北西の風強く、連雀町・新銀町・佐柄木町・須田町へ焼込、北風に替りて須田町二丁目・通新石町より通り町筋、本銀町・本石町・本町四丁・本両替町・駿河町・北鞘町・品川町・室町壱丁目・日本橋際迄、東は小柳町・黒門町・三島町・岸町・永井町・富山町・紺屋町辺、浮世小路・塩河岸・瀬戸物町・小田原町・本船町・同河岸通迄焼出し、暁にいたり東風になり、又色々に替りて、西の方、雉子町・四軒町・三河町四丁・同裏町・此辺武家地・養安院屋敷・鎌倉町・龍閑町・松下町・永富町・皆川町の辺にいたる。此間に挟れたる町々は残る所なく焼て、二十九日朝五時頃鎮れり(牢やしき残り、東神田平永町より東の方は恙なし)。武家地の焼亡は少し。町数は百一ヶ町、長十町三十間余・町幅平均にして四町四十間程といふ。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表
