【事件・災害 / 火災・火事】 文化三年三月四日 ~ 文化三年三月五日 (西暦 1806-04-22 〜 1806-04-23)
📜 この頃の記事: 文化三年 文化三年三月

文化の大火。芝車町より出火し神田・浅草方面など五百余町を焼き尽くす

三月四日(陽暦四月二十二日)の昼九ッ時頃、芝車町より出火しました。
猛烈な坤(南西)の烈風にあおられて火勢は猛烈に拡大し、高輪のなは、田町の通り、三田、薩州家御屋敷、本芝周辺、金杉(増上寺の巽隅付近)、神明宮および門前、宇田川町通りの左右、出雲町、竹川町通り、数奇屋橋御門内外、木挽町、三十間堀、材木町、京橋から日本橋にかけて左右四丁ほどの幅で焼き尽くしました。
日本橋以北ではさらに広がりを見せ、常盤橋御門内外、室町・本町通りを通って、西は鎌倉町から三河町・雉子町・佐柄木町・筋違橋際に至り、東は堀留町・新乗物町・新材木町に及びました(堺町・葺屋町の芝居両座は奇跡的に残りました)。
そこからさらに富沢町・橘町周辺、横山町・馬喰町周辺へ進み、神田川を越えて西側は佐久間町・松永町・和泉橋・御徒士町通り・三味線堀・広徳寺前・寺町通りから東本願寺裏通りに至り、東側は浅草御門外から新堀通り・元鳥越・東本願寺・善徳寺の周辺に至るまで一帯が完全に焼失しました。
この火域に包まれた武家地や町家は一宇も残らず、翌五日の昼四時に大雨が降る中でようやく鎮火しました。
被災規模は長さ約二里半、幅平均七丁半に及び、諸侯藩邸八十三宇、寺院六十六箇寺、著名な神社二十余ヶ所、町数五百三十余町が焼失し、死者・溺死者は千二百余人に達しました。
焼け出された貧しい人々を救済するため、仮設小屋を15か所に建てて収容し、食べ物を支給しました。このほかの生活に困窮した人々に米やお金を支給しました。
なおこの時期、路上で刃物を使って視覚障害者や乞食を刺す者が現れたり、盗賊が横行して行き交う人々を刃物で傷つけたりしました。この火災の際の様々な噂や混乱の様子は、加藤曳尾庵の著書『我衣』に詳しく記されています。
この頃流行った狂歌
江戸中が 火焔にならん 成田不動尊 ふるはあまくに つくは宝剣
[江戸中が火の海になってしまいそうだ。成田不動尊が振るうのは天国〔あまくに:名刀の制作者〕の剣であり、突くのは宝剣であるよ]
この火事で高輪の薩摩藩邸が焼失した際、同藩が出版していた農学・博物学の大著『成形図説』の版木や原稿などもことごとく焼失しました。また佐久間町の医学館も全焼して蔵書の大半を失い、小野蘭山が自筆で書き写した『庶物類纂』もその半分ほどを焼き失ってしまいました。
なお、江戸参府のため長崎屋に滞在中だったオランダ商館長(カピタン)のヘンドリック・ヅーフは、一時長崎奉行・成瀬因幡守の屋敷に避難したものの、後に両国付近の旅宿へと避難場所を移しました。
【 史料原文・書き下し文 】
○三月四日(陽暦四月二二日)昼九ッ時、芝車町より出火、坤烈風にして、高輪・田町の通り・三田・薩州家御屋鋪・本芝辺・金杉(増上寺は巽隅斗)・神明宮幷門前・宇田川町通り左右・出雲町・竹川町通・数奇屋橋御門内外・木挽町・三十間堀・材木町・京橋より日本橋迄左右四丁位ヅヽ、日本橋北は弥広がり、常盤橋御門内外・室町本町通り、西は鎌倉町より三河町・雉子町・佐柄木町・筋違橋際迄、東は堀留町・新乗物町・新材木町に至り、堺町・葺屋町幷芝居両座は残る。夫より富沢町・橘町辺、横山町・馬喰町辺、神田川を越て西は佐久間町・松永町・和泉橋・御徒士町通り・三味線堀・広徳寺前・寺町通りより東本願寺裏通迄。東は浅草御門外より新堀通り・元鳥越・東本願寺・善徳寺の辺迄焼亡。此間に包まれたる武家町家、一宇も残る事なし。翌五日の昼四時にいたりて、漸く鎮れり。此時大雨降。類焼凡長弐里半・幅平均七丁半、諸侯藩邸八十三宇・寺院六十六箇寺・名ある神社二十余ヶ所・町数五百三十余町と聞ゆ。又焼死・溺死千二百余人といへり。類火にあひし賤民御救の小屋十五箇所へ建て、こゝに憩いこはしめ、食物を給る。此余の貧民へも米銭を給はる(此節、途中に刃物を以て、盲人、或は物もらひを突くものあり、又盗賊行れ、刃物を以、往来の人を傷ふ。此火災の時の雑説、曳尾庵の『我衣』にくわしくしるせり)。
江戸中が火焰に成田不動尊ふるはあまくにつくは宝剣
金吾云、この火事にて高輪の薩摩屋敷焼失したる際、同藩蔵板の『成形図説』の板木・原稿等も烏有に帰す。また佐久間町の医学館も全焼、蔵書の大半を失ひ、小野蘭山手写の『庶物類纂』もその半ばを焼失す。なほ江戸参府、長崎屋に滞在中のカピタン、ヘンドリック・ヅーフは、一時長崎奉行成瀬因幡守邸に避難するも、後に両国付近の旅宿に移る。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表