【人物 / おくやみ】
天保十一年十二月十四日
(西暦 1841-01-06)
干支: 年[庚子] 月[己丑] 日[庚午]
月相: / 節気:
月相: / 節気:
谷文晁が七十八歳で死去。江戸画壇の巨匠
十二月十四日、江戸画壇の重鎮で写山楼・画学斎と号した画人の谷文晁(薙髪して文阿弥)が亡くなりました。78歳でした。墓所は浅草の源空寺(現在の東京都台東区東上野周辺)に置かれました。
実力のあった養子の文一は早世したため、家督はまだ若い実子の文二が継ぎました。
武江年表には「筠庭云、養子文乙、上手なりしが早く死し、文晁も身まかりて、文一、画もよくなりしかど(後略)」とありますが、他の資料には文乙の名前は見えず、養子の文一は文晁に先だって亡くなっており、実子の文二が跡を継いでいます。
実力のあった養子の文一は早世したため、家督はまだ若い実子の文二が継ぎました。
武江年表には「筠庭云、養子文乙、上手なりしが早く死し、文晁も身まかりて、文一、画もよくなりしかど(後略)」とありますが、他の資料には文乙の名前は見えず、養子の文一は文晁に先だって亡くなっており、実子の文二が跡を継いでいます。
【 史料原文・書き下し文 】
○十二月十四日、画人谷文晁卒(号写山楼、又画学斎。薙髪して文阿弥と云。浅草源空寺に葬す)。
筠庭云、養子文乙、上手なりしが早く死し、文晁も身まかりて、文一、画もよくなりしかど、一度もとの宅引払ひ、さまよひしが、又もとの二丁町に家作りて住けるに、これも不孝にして昨嘉永三年没したりとぞ。残りし物は借財と三つになる子ばかりとぞきく。惜むべし。文一が子ありしが、如何なりしか。
金吾云、文晁の享年七十八歳なり。(武江年表)
筠庭云、養子文乙、上手なりしが早く死し、文晁も身まかりて、文一、画もよくなりしかど、一度もとの宅引払ひ、さまよひしが、又もとの二丁町に家作りて住けるに、これも不孝にして昨嘉永三年没したりとぞ。残りし物は借財と三つになる子ばかりとぞきく。惜むべし。文一が子ありしが、如何なりしか。
金吾云、文晁の享年七十八歳なり。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表、wikipedia
