被災者への見舞金や炊き出しが行われる
明暦の大火後、米価が一時に高騰したため、貧しい身分の人々(賤民)の生活苦は極まり、道路のあちこちで悲泣する声が響きました。
そのため幕府は、正月二十三日から7日間にわたり、火災に遭って飢饉に直面した人々へ各地で粥を支給したほか、町中へ銀子1万貫目(金に換算して16万両、間口1間につき金3両1分と銀6匁8分ずつに相当)を下賜しました(なお、囚獄の罪人を火事の際に一時的に放免する制度は、この時より始まったと『むさしあぶみ』に記録されています)。
『視吾堂集』によると、吉川惟足は、大火の後に江戸府内の火災跡地(江府回禄)に人々が仮小屋をしつらえて暮らしている有様を見て、「よしといひ あしとやいはむ つのくにの 世の中の暑さ 冷しさ(津の国の『芦』と『良し』を掛け、全てを焼き尽くした火事の凄まじい『暑さ(熱さ)』と、家を失って仮小屋で寒風に晒される今の『冷しさ』のどちらと言えばよいのか、この世の非情な移り変わりを一体どう評価すべきだろうか)」という狂歌を詠んで惨状を深く嘆きました。
そのため幕府は、正月二十三日から7日間にわたり、火災に遭って飢饉に直面した人々へ各地で粥を支給したほか、町中へ銀子1万貫目(金に換算して16万両、間口1間につき金3両1分と銀6匁8分ずつに相当)を下賜しました(なお、囚獄の罪人を火事の際に一時的に放免する制度は、この時より始まったと『むさしあぶみ』に記録されています)。
『視吾堂集』によると、吉川惟足は、大火の後に江戸府内の火災跡地(江府回禄)に人々が仮小屋をしつらえて暮らしている有様を見て、「よしといひ あしとやいはむ つのくにの 世の中の暑さ 冷しさ(津の国の『芦』と『良し』を掛け、全てを焼き尽くした火事の凄まじい『暑さ(熱さ)』と、家を失って仮小屋で寒風に晒される今の『冷しさ』のどちらと言えばよいのか、この世の非情な移り変わりを一体どう評価すべきだろうか)」という狂歌を詠んで惨状を深く嘆きました。
【 史料原文・書き下し文 】
○正月十八日、乾大風。未刻より本郷五丁目裏本妙寺より出火、湯島・神田辺、浅草御門内町屋、通町筋、鎌倉河岸・京橋・八丁堀・霊巌島・鉄炮洲海手・佃島・深川に至る。翌十九日、巳刻過、小石川伝通院前新鷹匠町より焼出し、牛込御門・田安御門・神田橋御門・常盤橋御門・呉服橋御門・八代洲河岸・大名小路・数奇屋橋御門等焼亡。又、同日、番町(麴町五丁目つゞき)より火出て、半蔵御門の外、桜田・虎御門・愛宕下、増上寺門前・札の辻海手まで焼亡。此類焼、万石以上の御屋敷五百余宇、御籏本七百七十余宇、但し組屋敷数をしらず。堂社三百五十余宇、町屋四百町、片町八百町、焼死人十万七千四十六人といへり。依て本庄に二町四方の地を給ひ、非人をして死骸を船にて運しめ、塚に築て寺院を建て、国豊山無縁寺回向院と名つけしめ給ふ(去年十一月より当年正月に及ぶ迄、雨、更になし。二十一日に至て大雪降。米価一時に登揚して、賤民の困苦甚しく、道路に悲泣す)。正月二十三日より七日の間、火災に逢ふて飢饉に及ぶ輩へ、所々に於て粥かゆを給はり、又町中へ銀子壱万貫目(金にして十六万両、間口一間に三両壱分と銀六匁八分づゝといふ)を下し給はる(囚獄の罪人を、火事の時放たるゝ事は、この時より始れるよし、『むさしあぶみ』に見えたり)。
『視吾堂集』江府回禄の後、仮に小屋をしつらひ、みな人すむを見て、
よしといひあしとやいはむつのくにの世の中の暑さ冷しさ 吉川惟足
筠庭云、御城、御本丸・御天守等炎上。西御丸恙なし。
金吾云、御本丸・御天守炎上せしは、十九日の火災によりてなり。(武江年表)
『視吾堂集』江府回禄の後、仮に小屋をしつらひ、みな人すむを見て、
よしといひあしとやいはむつのくにの世の中の暑さ冷しさ 吉川惟足
筠庭云、御城、御本丸・御天守等炎上。西御丸恙なし。
金吾云、御本丸・御天守炎上せしは、十九日の火災によりてなり。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表
