明暦の大火が発生。江戸城天守閣と市中の大半が全焼
正月十八日、乾の方角(北西)から烈しいからっ風が吹き荒れる中、未の刻(14時頃)に本郷五丁目裏にあった本妙寺(現在の東京都文京区本郷周辺)より出火しました。
火は猛烈な勢いで燃え広がり、湯島(文京区湯島周辺)や神田の周辺(千代田区神田周辺)、浅草御門内町屋(台東区浅草橋周辺)、通町筋(現在の中央区日本橋周辺)、鎌倉河岸(現在の千代田区内神田周辺)、京橋(中央区京橋周辺)、八丁堀(現在の中央区八丁堀周辺)、霊巌島(現在の中央区新川周辺)、鉄砲洲の海岸沿い(中央区湊周辺)、佃島(中央区佃周辺)、さらに深川(江東区深川周辺)にいたる甚大な範囲に到達しました。
さらに翌十九日、巳の刻過ぎ(10時頃)には、小石川伝通院前(文京区小石川周辺)の新鷹匠町から新たな火の手が上がり、牛込御門(新宿区市谷本村町周辺)、田安御門(現在の千代田区九段南周辺)、神田橋御門、常盤橋御門(いずれも現在の千代田区大手町周辺)、呉服橋御門(現在の千代田区丸の内周辺)、八代洲河岸(現在の千代田区八重洲周辺)、大名小路(現在の千代田区丸の内・大手町周辺)、数寄屋橋御門(現在の千代田区有楽町・銀座周辺)などを次々と焼失させました。
また同日、番町(麹町五丁目続き、千代田区一番町から五番町周辺)からも出火し、半蔵御門の外(現在の千代田区千代田周辺)、桜田(現在の千代田区霞が関・内幸町周辺)、虎御門(現在の港区虎ノ門周辺)、愛宕下(現在の港区西新橋周辺)、増上寺門前(現在の港区芝公園周辺)、札の辻の海岸沿い(現在の港区芝周辺)に至るまで残らず焼失しました。
この広範囲にわたる類焼により、万石以上の大名屋敷500余宇、旗本屋敷770余宇(組屋敷の数は除く)、神社仏閣350余宇、町屋400町、片町800町が全焼し、焼死者は10万7046人にのぼると伝えられています。
幕府は被害を受けた人々を救うため、本所(墨田区本所周辺)に2町四方の土地を与え、死骸を船で運び込ませて大きな塚を築き、そこに寺院を建立して「国豊山無縁寺回向院(墨田区両国周辺)」と名付けるよう命じました。
なお、江戸城の御本丸・御天守等も炎上しましたが、西御丸は奇跡的に被害を免れました(御本丸・御天守の炎上は十九日の火災によるものと考証されています)。
火は猛烈な勢いで燃え広がり、湯島(文京区湯島周辺)や神田の周辺(千代田区神田周辺)、浅草御門内町屋(台東区浅草橋周辺)、通町筋(現在の中央区日本橋周辺)、鎌倉河岸(現在の千代田区内神田周辺)、京橋(中央区京橋周辺)、八丁堀(現在の中央区八丁堀周辺)、霊巌島(現在の中央区新川周辺)、鉄砲洲の海岸沿い(中央区湊周辺)、佃島(中央区佃周辺)、さらに深川(江東区深川周辺)にいたる甚大な範囲に到達しました。
さらに翌十九日、巳の刻過ぎ(10時頃)には、小石川伝通院前(文京区小石川周辺)の新鷹匠町から新たな火の手が上がり、牛込御門(新宿区市谷本村町周辺)、田安御門(現在の千代田区九段南周辺)、神田橋御門、常盤橋御門(いずれも現在の千代田区大手町周辺)、呉服橋御門(現在の千代田区丸の内周辺)、八代洲河岸(現在の千代田区八重洲周辺)、大名小路(現在の千代田区丸の内・大手町周辺)、数寄屋橋御門(現在の千代田区有楽町・銀座周辺)などを次々と焼失させました。
また同日、番町(麹町五丁目続き、千代田区一番町から五番町周辺)からも出火し、半蔵御門の外(現在の千代田区千代田周辺)、桜田(現在の千代田区霞が関・内幸町周辺)、虎御門(現在の港区虎ノ門周辺)、愛宕下(現在の港区西新橋周辺)、増上寺門前(現在の港区芝公園周辺)、札の辻の海岸沿い(現在の港区芝周辺)に至るまで残らず焼失しました。
この広範囲にわたる類焼により、万石以上の大名屋敷500余宇、旗本屋敷770余宇(組屋敷の数は除く)、神社仏閣350余宇、町屋400町、片町800町が全焼し、焼死者は10万7046人にのぼると伝えられています。
幕府は被害を受けた人々を救うため、本所(墨田区本所周辺)に2町四方の土地を与え、死骸を船で運び込ませて大きな塚を築き、そこに寺院を建立して「国豊山無縁寺回向院(墨田区両国周辺)」と名付けるよう命じました。
なお、江戸城の御本丸・御天守等も炎上しましたが、西御丸は奇跡的に被害を免れました(御本丸・御天守の炎上は十九日の火災によるものと考証されています)。
【 史料原文・書き下し文 】
○正月十八日、乾大風。未刻より本郷五丁目裏本妙寺より出火、湯島・神田辺、浅草御門内町屋、通町筋、鎌倉河岸・京橋・八丁堀・霊巌島・鉄炮洲海手・佃島・深川に至る。翌十九日、巳刻過、小石川伝通院前新鷹匠町より焼出し、牛込御門・田安御門・神田橋御門・常盤橋御門・呉服橋御門・八代洲河岸・大名小路・数奇屋橋御門等焼亡。又、同日、番町(麴町五丁目つゞき)より火出て、半蔵御門の外、桜田・虎御門・愛宕下、増上寺門前・札の辻海手まで焼亡。此類焼、万石以上の御屋敷五百余宇、御籏本七百七十余宇、但し組屋敷数をしらず。堂社三百五十余宇、町屋四百町、片町八百町、焼死人十万七千四十六人といへり。依て本庄に二町四方の地を給ひ、非人をして死骸を船にて運しめ、塚に築て寺院を建て、国豊山無縁寺回向院と名つけしめ給ふ(去年十一月より当年正月に及ぶ迄、雨、更になし。二十一日に至て大雪降。米価一時に登揚して、賤民の困苦甚しく、道路に悲泣す)。正月二十三日より七日の間、火災に逢ふて飢饉に及ぶ輩へ、所々に於て粥かゆを給はり、又町中へ銀子壱万貫目(金にして十六万両、間口一間に三両壱分と銀六匁八分づゝといふ)を下し給はる(囚獄の罪人を、火事の時放たるゝ事は、この時より始れるよし、『むさしあぶみ』に見えたり)。
『視吾堂集』江府回禄の後、仮に小屋をしつらひ、みな人すむを見て、
よしといひあしとやいはむつのくにの世の中の暑さ冷しさ 吉川惟足
筠庭云、御城、御本丸・御天守等炎上。西御丸恙なし。
金吾云、御本丸・御天守炎上せしは、十九日の火災によりてなり。(武江年表)
『視吾堂集』江府回禄の後、仮に小屋をしつらひ、みな人すむを見て、
よしといひあしとやいはむつのくにの世の中の暑さ冷しさ 吉川惟足
筠庭云、御城、御本丸・御天守等炎上。西御丸恙なし。
金吾云、御本丸・御天守炎上せしは、十九日の火災によりてなり。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表
