【事件・災害 / 火災・火事】 明和九年二月二十九日 ~ 明和九年二月三十日 (西暦 1772-04-01 〜 1772-04-02)
📜 この頃の記事: 明和九年 明和九年二月

明和の大火。目黒行人坂大円寺から出火し明暦の大火に匹敵する歴史的大惨事

二月二十九日、乾(北西)から西南の猛烈な風が吹き荒れ、土煙が天を覆い日光が朦朧とするなか、午の刻(12時頃)、目黒行人坂の大円寺(品川区西五反田・目黒区下目黒周辺)より出火しました。
火勢は永峰町・白金在町(港区白金一帯)、麻布一帯(港区麻布一帯、善福寺は本堂・開山堂が残る)、三田新網町一帯・狸穴・飯倉・市兵衛町なだれ・霊南坂(港区三田・麻布・六本木・赤坂一帯)へと延焼しました。
一筋は西久保・桜田・霞が関・虎御門・日比谷御門・馬場先御門・桜田御門・和田倉御門・常盤橋御門・神田橋御門周辺(港区・千代田区の官庁街・皇居周辺一帯)へ広がり、同道筋の御門内の諸侯藩邸がことごとく灰燼に帰しました。
日本橋南側では通三・四丁目西側・元四日市町・万町・西河岸周辺から南伝馬町・中橋を経て上槙町まで(中央区日本橋・八重洲・京橋一帯)が被災しました。
北側では本町・石町周辺(中央区日本橋一帯)、東西の神田町々・武家地一帯、小川町入口・駿河台・昌平橋・筋違橋御門・外神田町々・神田社・聖堂・湯島天神社およびその近辺一帯(千代田区・文京区の神田・湯島一帯)、上野仁王門・山王社・下寺(台東区上野一帯、仁王門は再度の焼亡)、車坂・下谷広小路・御徒町・三味線堀・坂本・入谷・金杉・箕の輪・小塚原・吉原町・千住大橋向掃部宿(台東区・荒川区・足立区の下谷・浅草・箕輪・千住一帯)まで延焼しました。
浅草筋では下谷広徳寺前通・新堀・阿部川町・鳥越周辺(台東区鳥越・寿一帯)、本願寺御堂・浅草寺(本堂は残る)・伝法院および寺中・馬道・田町・新鳥越・橋場(台東区浅草・橋場一帯)に至りました。
また同日暮六時(18時頃)、本郷丸山田町(文京区本郷一帯)からも出火し、森川宿追分・駒込・白山・傾城が窪入口・うなぎ縄手・土物店・千駄木入口・根津・谷中感応寺(感応寺五重塔も焼失)・芋坂・根岸周辺(文京区・台東区・北区の駒込・白山・根津・谷中・根岸一帯)へ広がりました(翌三十日未刻[14時頃]にようやく停止)。
翌三十日の巳刻(10時頃)、北風あるいは東風に変わり、常盤橋外の火が復燃して大伝馬町周辺・馬喰町二丁目まで、浜町周辺、堺町・葺屋町の歌舞伎二座および操人形芝居四座、小網町・大坂町・田所町・難波町・住吉町周辺・伊勢町・駿河町・室町周辺(中央区日本橋・人形町・浜町一帯)、日本橋・中橋・京橋(中央区日本橋・京橋一帯)にまで再び達しました。
未刻(14時頃)、双方の火が沈静化するとともに大雨が降り風も鎮まりました。
この火災は被害の長さ六里(約24km)、幅一里(約4km)に及び、大小名藩邸・寺社・町屋の焼失は夥しく、焼死者・負傷者は数知れません(麻布一本松も焼失し後に植え替えられました。吉原遊廓の仮宅は今戸・橋場・山之宿・両国・深川八幡前・佃町などに設けられ、芳町の芸者も仲町の仮宅へ出ました。大火後、大円寺は再建されず、その跡地には五百羅漢の石像が造立されました。
雪中庵蓼太は横山町から深川六間堀の要津寺中に逃れ『緋桜を忘れて青き柳かな([あでやかに咲き誇っていた緋桜の記憶すら吹き飛んでしまうほどの凄惨な大火を経験し、今はこの青々とした柳をただ眺めるばかりであるよ])』と詠んで見舞い客と百句を詠み明かしたと伝えられます)。
なお、大円寺の出火は同寺の「長五郎坊主」と異名された悪僧が師父に怨みを抱き、物置に放火したことが原因であり、同年六月二十一日に浅草にて火刑に処されました。死傷者は数千人に及び、明暦三年(1657年)の大火以来の大惨事となりました。
※市村屋注:この大火はのちに明和の大火と呼ばれます。
【 史料原文・書き下し文 】
○二月二十九日(陽暦四月一日)、乾より西南の風烈しく、土烟天を覆ひ、日光朦朧たり。午の刻、目黒行人坂大円寺(天台)より出火して、永峯町通り・白金在町・麻布辺一円(善福寺は本堂・開山堂のこる)・三田新網町辺・狸穴・飯倉・市兵衛町なだれ・霊南坂、一筋は、西久保・桜田・霞が関・虎御門・日比谷御門・馬場先御門・桜田御門・和田倉御門・常盤橋御門・神田橋御門等焼亡。右道筋御門内諸侯藩邸、灰燼と成る。日本橋南は通三・四町目西側、元四日市町・万町・西河岸辺より南伝馬町・中橋を限り上槙町迄。北は本町・石町辺・東西神田町々・武家方共一円。小川町入口・駿河台・昌平橋・筋違橋御門・外神田町々・神田社・聖堂・湯島天神社・同所近辺一円。上野仁王門・山王社・下寺不残、車坂・下谷辺広小路・御徒町・三味線堀・坂本・入谷・金杉・箕の輪・小塚原・吉原町・千住大橋向掃部宿。浅草筋は下谷広徳寺前通・新堀・阿部川町・鳥越辺、本願寺御堂・浅草寺(本堂残る)・伝法院幷寺中・馬道・田町・新鳥越・橋場に至る。又同日暮六時、本郷丸山田町より出火して、森川宿追分・駒込・白山・傾城が窪入口迄。うなぎ縄手・土物店・千太木入口・根津・谷中感応寺・芋坂・根岸に至る(翌晦日未刻、此所にて止る)。又翌晦日巳刻、北風にかはり、或東風に成、常盤橋外の火、大伝馬町辺・馬喰町二丁目迄、浜町辺、堺町・葺屋町両座の芝居・操芝居四座、小網町・大坂町・田所町・難波町・住吉町辺・伊勢町・駿河町・室町辺、日本橋・中橋・京橋にいたる。未刻、双方の火鎮り、此時大雨降、風鎮る。此火事、長六里・幅一里。大小名藩邸・寺院・神社・町屋の類夥しく、焼死怪我人、其数を知らず(上野仁王門、此時再度の焼亡也。感応寺五重ノ塔も此とき焼る。麻布一本松やけて、後に栽替たり。○吉原町仮宅、今戸・橋場・山の宿・両国・深川八幡前・佃丁へ出る。芳町の衒艶郎も仲丁の仮宅へ出る。○大火後、行人坂大円寺再建無し。その跡へ、ある人、五百羅漢の石像を造立す。○雪中菴蓼太、横山町に住たりしが、此火事に逃れて深川六間堀要津寺中の菴にいたり、『緋桜を忘れて青き柳かな』といふ句をなし、見舞にきたりし人に句を乞ひて、百韵みてゝ夜を明せしとぞ)。
金吾云、大円寺の出火は、同寺の所化長五郎坊主と異名せられし悪僧、その師にいささか恨むことあり、物置に放火したるより起こりしとのこと。六月二十一日、浅草に於て火刑に処せらる。なほ、この火災による死傷者は数千人に及び、明暦三年以来の大火となる。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表