【事件・災害 / 火災・火事】
文久三年十一月二十三日
(西暦 1864-01-02)
干支: 年[癸亥] 月[甲子] 日[丙寅]
月相: 下弦 / 節気:
月相: 下弦 / 節気:
駿河町の越後屋(三井呉服店)より出火し室町・本船町など一帯が全焼、魚河岸復旧見舞金などを配布
十一月二十三日の昼四時前(午前10時前・お昼前)、駿河町(現在の東京都中央区日本橋室町周辺)の越後屋より失火し、駿河町、室町二丁目・三丁目、本両替町、北鞘町、品川町・同裏河岸、本船町、小田原町、長浜町一・二丁目、安針町(いずれも現在の中央区日本橋室町・日本橋本町・日本橋小舟町周辺)などの広い範囲が全焼しました(長さ2町40間・平均幅1町半ほど)。
「越後屋」とあるのは後の「三井呉服店」のことです。正式に三井呉服店と改称されたのは明治29年(さらに明治37年に三越呉服店へと改称)ですが、幕末から明治初頭の呉服業衰退に伴い、三井大元方から越後屋を分離して「三井呉服店」と改称する構想が当時検討されており、著者の斎藤月岑はその噂を耳にして前倒しで誤記したものと推測されます。なお、この大火に際して越後屋は、被災者に対し表店各10両・裏店各5両(合計1万1,818両)の見舞金を配布したほか、魚河岸の復旧資金として1万5,000両を貸し付けるなど手厚い支援を行いました。"
「越後屋」とあるのは後の「三井呉服店」のことです。正式に三井呉服店と改称されたのは明治29年(さらに明治37年に三越呉服店へと改称)ですが、幕末から明治初頭の呉服業衰退に伴い、三井大元方から越後屋を分離して「三井呉服店」と改称する構想が当時検討されており、著者の斎藤月岑はその噂を耳にして前倒しで誤記したものと推測されます。なお、この大火に際して越後屋は、被災者に対し表店各10両・裏店各5両(合計1万1,818両)の見舞金を配布したほか、魚河岸の復旧資金として1万5,000両を貸し付けるなど手厚い支援を行いました。"
【 史料原文・書き下し文 】
○同二十三日昼、四時前、駿河町三井呉服店より失火して、駿河町・室町弐丁目・三丁目・本両替町・北鞘町・品川町・同裏河岸・本船町・小田原町・長浜町壱・二丁目・安針町等焼亡。長延二町四十間・幅平均して壱丁半程なり。
金吾云、ここにいふ三井呉服店は、当時の越後屋にして、越後屋が三井呉服店と正式に改称したるは明治二十九年なり。実は幕末より明治初めにかけて呉服業は衰微、三井大元方にても呉服店としての越後屋を大元方より分離、三井呉服店と改称する方向にて検討し始めしものにして、月岑もこの噂を耳にし、ここに誤り記せしか。この後、明治三十七年、三井越後屋の略称として三越呉服店と改めしなり。なほ、この火災に際し越後屋では、被災者に対し表店各十両、裏店各五両、計一万一千八百十八両の見舞金を配布するとともに、魚河岸復旧資金として、一万五千両を貸し付けしといふ。(武江年表)
金吾云、ここにいふ三井呉服店は、当時の越後屋にして、越後屋が三井呉服店と正式に改称したるは明治二十九年なり。実は幕末より明治初めにかけて呉服業は衰微、三井大元方にても呉服店としての越後屋を大元方より分離、三井呉服店と改称する方向にて検討し始めしものにして、月岑もこの噂を耳にし、ここに誤り記せしか。この後、明治三十七年、三井越後屋の略称として三越呉服店と改めしなり。なほ、この火災に際し越後屋では、被災者に対し表店各十両、裏店各五両、計一万一千八百十八両の見舞金を配布するとともに、魚河岸復旧資金として、一万五千両を貸し付けしといふ。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表
