【事件・災害 / 火災・火事】
享保二年正月二十二日
(西暦 1717-03-04)
干支: 年[丁酉] 月[壬寅] 日[丁卯]
月相: / 節気:
月相: / 節気:
小石川馬場脇から出火。京橋や築地まで広範囲を焼失
正月二十二日の未の刻(14時頃)、小石川馬場脇にあった井出某の屋敷(現在の東京都文京区小石川周辺)より火災が発生しました。
火は湯島や神田の護持院の荘厳な建物、神田橋御門内、鍛冶橋御門にいたる多数の諸侯の藩邸をはじめ、通町、八丁堀、築地(いずれも現在の中央区周辺)にいたる武家屋敷および町屋を夥しく焼き尽くす大火となりました。
この大火の後、護持院は小日向の末(現在の東京都文京区大塚周辺、一説には護国寺とも)へと移転させられ、その跡地および雉子橋外にあった武家屋敷の跡地は更地となりました。
俗にこの更地は「護持院ヶ原」と呼ばれています。『江戸名所図会』によると、「神田橋と一橋の間、お堀の外の芝生のことをいい、林泉の形が残り非常に景色が良い。夏や秋の間はここが一般に開放され、都下の人々が遊びに訪れることが許されている。冬や春の間は、時として大将軍家がここで御遊猟をなさる。そのため、この場所は『新駒が原』とも称されている」と記されています。
火は湯島や神田の護持院の荘厳な建物、神田橋御門内、鍛冶橋御門にいたる多数の諸侯の藩邸をはじめ、通町、八丁堀、築地(いずれも現在の中央区周辺)にいたる武家屋敷および町屋を夥しく焼き尽くす大火となりました。
この大火の後、護持院は小日向の末(現在の東京都文京区大塚周辺、一説には護国寺とも)へと移転させられ、その跡地および雉子橋外にあった武家屋敷の跡地は更地となりました。
俗にこの更地は「護持院ヶ原」と呼ばれています。『江戸名所図会』によると、「神田橋と一橋の間、お堀の外の芝生のことをいい、林泉の形が残り非常に景色が良い。夏や秋の間はここが一般に開放され、都下の人々が遊びに訪れることが許されている。冬や春の間は、時として大将軍家がここで御遊猟をなさる。そのため、この場所は『新駒が原』とも称されている」と記されています。
【 史料原文・書き下し文 】
○正月二十二日未刻、小石川馬場脇井出某殿より出火、湯しま・神田護持院の荘厳、神田橋御門内・鍛冶橋御門まで諸侯の藩邸数宇、通町・八丁堀・築地まで武家・町屋とも夥しく焼亡あり。
○災後、護持院を小日向の末に移させられ、その跡幷雉子橋外武家屋舗跡、畾地となれり。
筠庭云、小日向の末、護国寺に移さる。
金吾云、畾地とは空地の意にして、世俗これを護持院ヶ原と呼べり。『江戸名所図会』に云、「神田橋と一橋との間、御溝の外の芝生を云(中略)。林泉の形、残りて頗る佳景なり。夏秋の間は是を開かせられ、都下の人こゝに遊ぶ事をゆるさる。冬春の間は、時として大将軍家、こゝに御遊猟あり。故に此所を新駒が原とも唱ふるとなり」。(武江年表)
○災後、護持院を小日向の末に移させられ、その跡幷雉子橋外武家屋舗跡、畾地となれり。
筠庭云、小日向の末、護国寺に移さる。
金吾云、畾地とは空地の意にして、世俗これを護持院ヶ原と呼べり。『江戸名所図会』に云、「神田橋と一橋との間、御溝の外の芝生を云(中略)。林泉の形、残りて頗る佳景なり。夏秋の間は是を開かせられ、都下の人こゝに遊ぶ事をゆるさる。冬春の間は、時として大将軍家、こゝに御遊猟あり。故に此所を新駒が原とも唱ふるとなり」。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表
