【事件・災害 / 火災・火事】
弘化二年正月二十四日
(西暦 1845-03-02)
干支: 年[乙巳] 月[戊寅] 日[丙戌]
月相: / 節気:
月相: / 節気:
青山火事が発生。青山から出火し麻布・高輪・白金など広範囲を焼失する大火
正月二十四日、非常に烈しい大風が吹き荒れて砂や小石を飛ばす中、昼八時過(14時頃)に青山権太原に続く三軒屋町の武家地(現在の東京都港区北青山周辺)より火災が発生しました。
火は一時に燃え広がり、飛火によって麻布の三軒家、一本松、鳥居坂の周辺(現在の東京都港区麻布周辺)、六本木、龍土、市兵衛町、桜田町、永坂の周辺、さらに広尾、白金、魚籃観音、大信寺の周辺、二本榎、伊皿子、猿町、高輪ならびに田町などに次々と延焼し、海岸(海手)にまで達しました。
夜に入ってからも狸穴、三田の新網町の周辺などが焼け続け、戌の下刻(20時頃)になってようやく鎮火しました。
焼失した武家屋敷や寺社の数は計り知れず、町数は126カ町にのぼりました。
また、焼死者や負傷者、あるいは海辺に追い詰められて前後の火に包まれ、海中へ飛び込んで溺れ死んだ人々を合わせると、その数は幾百人にのぼるといわれています。
赤羽橋の側には被災した貧民を救うための救済小屋が建てられ、生活の育成が図られました。
なお、瑞聖寺、善福寺、麻布氷川社、高輪太子堂、庚申堂、稲荷社、泉岳寺、如来寺などは奇跡的に類焼を免れました。
金吾の記録によると、白銀台の細川侯中屋敷も類焼し、火消し頭組の下にいた20人が一同残らず焼死したと伝えられています。
最終的な被害は、大名方屋敷115カ所、旗本方屋敷285カ所、寺院187カ寺を数え、焼死者および水死者は8900人にのぼるといわれています。
火は一時に燃え広がり、飛火によって麻布の三軒家、一本松、鳥居坂の周辺(現在の東京都港区麻布周辺)、六本木、龍土、市兵衛町、桜田町、永坂の周辺、さらに広尾、白金、魚籃観音、大信寺の周辺、二本榎、伊皿子、猿町、高輪ならびに田町などに次々と延焼し、海岸(海手)にまで達しました。
夜に入ってからも狸穴、三田の新網町の周辺などが焼け続け、戌の下刻(20時頃)になってようやく鎮火しました。
焼失した武家屋敷や寺社の数は計り知れず、町数は126カ町にのぼりました。
また、焼死者や負傷者、あるいは海辺に追い詰められて前後の火に包まれ、海中へ飛び込んで溺れ死んだ人々を合わせると、その数は幾百人にのぼるといわれています。
赤羽橋の側には被災した貧民を救うための救済小屋が建てられ、生活の育成が図られました。
なお、瑞聖寺、善福寺、麻布氷川社、高輪太子堂、庚申堂、稲荷社、泉岳寺、如来寺などは奇跡的に類焼を免れました。
金吾の記録によると、白銀台の細川侯中屋敷も類焼し、火消し頭組の下にいた20人が一同残らず焼死したと伝えられています。
最終的な被害は、大名方屋敷115カ所、旗本方屋敷285カ所、寺院187カ寺を数え、焼死者および水死者は8900人にのぼるといわれています。
【 史料原文・書き下し文 】
正月二十四日、北大風、砂石を飛す。昼八時過、青山権太原続三軒屋町武家地より出火して、一時に焼ひろがり、或飛火して麻布三軒家・一本松・鳥居坂辺、六本木・龍土・市兵衛町・桜田町・永坂辺、広尾・白金・魚籃観音・大信寺の辺、二本榎・伊皿子・猿町・高輪幷田町等焼亡して海手に至る。夜に入、狸穴・三田の新網町の辺焼亡、戌下刻鎮る。武家・寺社数を知らず。町数百二十六箇町、焼死・怪我人、或は海辺の者、前後の火に包れ、海中に入、溺れ死するものを合せて幾百人といふ事を知らず。赤羽橋の側に御救の小屋を建て、類焼の貧民を育せらる(此夜、何れの家よりのがれ出けん、荒熊一疋、人込の中を狂ひ走りて某侯の藩内へ逃入しを、家臣何某父子二人にて仕留たり。又此火事の時、白金台町一丁目禅宗西照寺の表門に掲たる、明の心越師の筆、普明山と隷字にて書たる扁額、火中にして残る。明和九年、行人坂の火事に危く残りたりしが、今年は門焼落て、額のみ残れり。諸人、奇とす。瑞聖寺・善福寺・麻布氷川社・高輪太子堂・庚申堂・稲荷社・泉岳寺・如来寺等は残れり)。
金吾云、白銀台細川侯中屋敷も類焼、火消し頭組下二十人一同残らず焼死の由。大名方屋敷百十五ヶ所・旗本方屋敷二百八十五ヶ所・寺院百八十七ヶ寺、焼死・水死八千九百人と云へり。(武江年表)
金吾云、白銀台細川侯中屋敷も類焼、火消し頭組下二十人一同残らず焼死の由。大名方屋敷百十五ヶ所・旗本方屋敷二百八十五ヶ所・寺院百八十七ヶ寺、焼死・水死八千九百人と云へり。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表
