【事件・災害 / 火災・火事】
明治五年二月二十六日
(西暦 1872-04-03)
干支: 年[壬申] 月[癸卯] 日[庚辰]
月相: / 節気:
月相: / 節気:
和田倉御門内から出火し京橋・銀座・築地一帯の四十余町を焼き尽くす大火
二月二十六日の大風のなか、未半刻(14時頃)、和田倉御門内(現在の東京都千代田区大手町一丁目周辺)にあった元会津藩主邸跡(当時の兵部省添屋敷)より出火しました。
火勢は東南へと猛威をふるい、山内侯邸・大蔵省紙幣寮・織田侯邸・司法省などが焼亡しました。
さらに市街地(坊間)へと飛び火し、西紺屋町・南紺屋町・弓町・新肴町・鎗屋町・弥左衛門町・南鍋町一・二丁目・瀧山町・元数寄屋町二~四丁目・京橋・水谷町・金六町・銀座一~四丁目・尾張町一・二丁目・同町新地・三十間堀一~三丁目・木挽町一~五丁目・釆女町・松村町・大富町・新富町五~七丁目・南飯田町・上柳原町・南本郷町・南小田原町一~三丁目(現在の千代田区・中央区の京橋、銀座、築地、新富町などの一帯)、さらに西本願寺(築地本願寺)やホテルなどに及びました。
焼失町数は四十一町、延焼の長さは二十町余(約2.2km)、幅は平均四町程(約436m)に及び、夜の亥刻(22時頃)に鎮火しました(この火災で八人の焼死者が出ました)。
災後には官員や富商から類焼した貧民への施行(炊き出しや救済)が多く行われ、のちの復興に際しては、道路の拡幅や、土蔵造り・煉瓦石造り等での家屋建築とするよう政府からお触れ(御沙汰)が出され、近代的な街づくりへと進む契機となりました。
火勢は東南へと猛威をふるい、山内侯邸・大蔵省紙幣寮・織田侯邸・司法省などが焼亡しました。
さらに市街地(坊間)へと飛び火し、西紺屋町・南紺屋町・弓町・新肴町・鎗屋町・弥左衛門町・南鍋町一・二丁目・瀧山町・元数寄屋町二~四丁目・京橋・水谷町・金六町・銀座一~四丁目・尾張町一・二丁目・同町新地・三十間堀一~三丁目・木挽町一~五丁目・釆女町・松村町・大富町・新富町五~七丁目・南飯田町・上柳原町・南本郷町・南小田原町一~三丁目(現在の千代田区・中央区の京橋、銀座、築地、新富町などの一帯)、さらに西本願寺(築地本願寺)やホテルなどに及びました。
焼失町数は四十一町、延焼の長さは二十町余(約2.2km)、幅は平均四町程(約436m)に及び、夜の亥刻(22時頃)に鎮火しました(この火災で八人の焼死者が出ました)。
災後には官員や富商から類焼した貧民への施行(炊き出しや救済)が多く行われ、のちの復興に際しては、道路の拡幅や、土蔵造り・煉瓦石造り等での家屋建築とするよう政府からお触れ(御沙汰)が出され、近代的な街づくりへと進む契機となりました。
【 史料原文・書き下し文 】
○同二十六日、大風。未半刻、和田倉御門内元会津侯邸跡、当時兵部省添屋敷より出火す。焰勢東南に被り、山内侯・大蔵省紙幣寮・織田侯・司法省等焼亡。又坊間へ飛火して、西紺屋町・南紺屋町・弓町・新肴町・鎗屋町・弥左衛門町・南鍋町一丁目・二丁目・瀧山町・元数寄屋町二丁目・三丁目・四丁目・京橋・水谷町・金六町・銀座一丁目より四丁目迄・尾張町一丁目・二丁目・同町新地・三十間堀一丁目より三丁目迄・木挽町一丁目より五丁目迄・釆女町・松村町・大富町・新富町五丁目より七丁目迄・南飯田町・上柳原町・南本郷町・南小田原町一丁目より三丁目迄・西本願寺・ホテル、其外焼亡に及ぶ。町数四拾一町・長二十町余・幅平均して四町程なり。夜、亥刻鎮る(焼死八人あり)。官員方、其外富商より類焼の貧民へ施行多し。災後、道幅の事、又家作は塗家か、或は煉瓦石を用ひ候様御沙汰有之、次第に造営の事、次に記す。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表
