飯倉町と新肴町で相次ぎ出火し築地に至る大火と火消の喧嘩
二月八日(初午の日)、まず飯倉町六丁目(現在の東京都港区麻布台・東麻布周辺)より出火し、2町余りの範囲が焼亡しました。
さらに同夜の八ッ半時(21時30分頃)には、新肴町(現在の中央区銀座周辺)からも出火しました。
火は弓町、弥左衛門町、竹川町、銀座四丁目、尾張町、三十間堀四丁目から二丁目(現在の中央区銀座周辺)を経て、築地の井伊侯御藩邸の周辺(現在の東京都中央区築地周辺)でようやく鎮火しました。
被害の規模は南北が10町余り、東西が4町程の広範囲に及び、翌日の昼四時頃(14時頃)にようやく完全鎮火に至りました。
なお、この消火活動の最中に火消人足たちの間で激しい喧嘩が発生する騒ぎもありました。
さらに同夜の八ッ半時(21時30分頃)には、新肴町(現在の中央区銀座周辺)からも出火しました。
火は弓町、弥左衛門町、竹川町、銀座四丁目、尾張町、三十間堀四丁目から二丁目(現在の中央区銀座周辺)を経て、築地の井伊侯御藩邸の周辺(現在の東京都中央区築地周辺)でようやく鎮火しました。
被害の規模は南北が10町余り、東西が4町程の広範囲に及び、翌日の昼四時頃(14時頃)にようやく完全鎮火に至りました。
なお、この消火活動の最中に火消人足たちの間で激しい喧嘩が発生する騒ぎもありました。
【 史料原文・書き下し文 】
○二月八日(初午也)、飯倉町六丁目より出火、二町余焼亡。同夜八ッ半時、新肴町より出火、弓町・弥左衛門町・竹川町・銀座四丁目・尾張町・三十間堀四丁目より二丁目まで、築地井伊侯御藩辺にて鎮る。南北十町余・東西四丁程焼亡。翌日昼四時頃鎮火也。火消人足の喧あり。(武江年表)
出典・参考文献: 武江年表
